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そめどのいん|時宗

染殿院
京都府 京都河原町駅

御朱印について御朱印
あり
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あり
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
なし

なし

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2025年12月23日(火) 18時32分30秒
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京都市中京区にあるお寺です。
この日は妻と義母の 錦市場でのお買い物の「足」の日でした。
二人が買い物をしている間に 市場近辺を散策しました。
こちら染殿院は二度目の参拝になります。
染殿院は 少し分かりにくい場所にあります。
和菓子屋さんの裏手にあり 和菓子屋さんからの入口から入るか 市場から細い道から入ります。
前回の参拝では 細い道に気づかず 和菓子屋さんをスルーして入りました。
こちらは安産祈願で有名なお寺です。
新京極8社寺の一つで 御朱印はいただけるのですが 珍しくQRコードがついています。
動画が見られるサービスです。
よければ試してみてください。

ネット情報です。
宗派は時宗 寺格は金蓮寺境外塔頭 ご本尊は地蔵菩薩(秘仏) 創建年は大同3年(808年) 開山は空海です。
本山の金蓮寺は 京都市北区の今宮神社のそばにあります。
当院は大同3年(808年)に空海によって創建された小堂に始まる。
その後 空海が唐に渡り帰国すると当院に入って十住心論を清書したことから 十住心院と称されるようになった。
文徳天皇の女御・染殿后(そめどの の きさき)が当院の地蔵菩薩に祈願したところ 後の清和天皇が生まれたことから 当院の地蔵菩薩は安産にご利益があるとされ染殿地蔵と呼ばれ 当院は染殿院と呼ばれるようになった。
この後 付近一帯が村上天皇の第四皇子・為平親王の屋敷となったため 染殿院は為平親王の屋敷に取り込まれ為平親王の御願寺とされた。
また 為平親王は染殿式部卿と呼ばれるようになった。
東大寺の僧・奝然が釈迦如来像(生身の釈迦)を請来して宋から戻ると 三尺余りの釈迦如来像を彫らせて当院に寄進した。
以来当院は釈迦院と呼ばれるようになった。
南北朝時代 西芳寺(苔寺)に夢窓疎石が庭を造ろうとしていた際 当院の地蔵菩薩の化身がその作庭を手伝ったという。
室町時代初期には当院はどこの宗派にも属していなかったが 嘉慶2年(1388年)12月22日に足利義満により時宗の金蓮寺に寄進されてしまい 金蓮寺の塔頭とされた。
元治元年(1864年)7月に禁門の変が起きると どんどん焼けによって全焼した。
現在の建物はその後に建てられた仮堂である。

染殿院(京都府)

市場からの参道

染殿院(京都府)

本堂

染殿院(京都府)

内陣

染殿院(京都府)

由緒書

染殿院(京都府)

狭いながら庭もあります

染殿院(京都府)

新京極8社寺の御朱印

染殿院(京都府)

提灯が美しい

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歴史

染殿院は、大同三年春(808)空海(弘法大師)の会期にして、大師入唐歸朝の後當院に留まり十住心論を清書調マされたことから十住心院と称した。
古往は釈迦院或は敬禮寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。本尊は地蔵菩薩にして高サ二メートル余の木彫髁形の立像にて秘佛である。
人皇五十五代文徳天皇(850-858在位)の后藤原明子(藤原忠仁公の息女)は染殿皇后と申し、この地蔵尊に祈願して皇子を降誕された。後の清和天皇である。これより染殿地蔵尊と称されました。
人皇六十二代村上天皇(946-967在位)第三皇子一品式部郷久賀為平親王は、四條中川のあたり(中川は御所より今の寺町通に流れていた川)境域広く家造りされた。染殿地蔵堂も自然この内に含まれ御願寺となって皇子を染殿親王と申した。
六十六代一條院永延元年(987)に東大寺沙門奝然が入宗歸朝し赤旗檀の釈迦像を傳耒し嵯峨野の清涼寺に安置されたが奝然はまた自から御丈三尺余の釈迦像一軀を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより世に四條京極の釈迦堂と呼ばれた。鎌倉期の一遍聖絵巻に「弘安七年閏四月十六日関寺より四條京極の釈迦堂にいり給ふ。貴族上下群をなして人はかえり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき一七日ののち因幡堂にうつり給ふ」とある、すなわち一遍上人が大津関寺から入洛四條京極の釈迦堂にて念佛賦算をしたというのはこの寺のことである。金蓮寺よりも釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかいりも深いであるが、室町時代はどの寺社にも属しておらず時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持傳耒されて耒たが、偶々足利義満が嘉慶二年十二月二十日金蓮寺に寄進したため本来顛倒して金蓮寺の塔頭になった。

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染殿院の基本情報

住所

京都府京都市中京区中之町562

行き方

市バス「四条河原町」下車、徒歩2分
阪急「河原町駅」よりすぐ
京阪「四条駅」より徒歩約5分

アクセスを詳しく見る
名称

染殿院

読み方

そめどのいん

通称

染殿地蔵

参拝時間

午前10時〜午後6時

参拝料

なし

御朱印あり
限定御朱印あり
電話番号075-221-3648
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.somedonoin.com
絵馬

あり

詳細情報

ご本尊地蔵菩薩
宗旨・宗派時宗
創建時代

大同三年(808)

開山・開基

弘法大師

ご由緒

染殿院は、大同三年春(808)空海(弘法大師)の会期にして、大師入唐歸朝の後當院に留まり十住心論を清書調マされたことから十住心院と称した。
古往は釈迦院或は敬禮寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。本尊は地蔵菩薩にして高サ二メートル余の木彫髁形の立像にて秘佛である。
人皇五十五代文徳天皇(850-858在位)の后藤原明子(藤原忠仁公の息女)は染殿皇后と申し、この地蔵尊に祈願して皇子を降誕された。後の清和天皇である。これより染殿地蔵尊と称されました。
人皇六十二代村上天皇(946-967在位)第三皇子一品式部郷久賀為平親王は、四條中川のあたり(中川は御所より今の寺町通に流れていた川)境域広く家造りされた。染殿地蔵堂も自然この内に含まれ御願寺となって皇子を染殿親王と申した。
六十六代一條院永延元年(987)に東大寺沙門奝然が入宗歸朝し赤旗檀の釈迦像を傳耒し嵯峨野の清涼寺に安置されたが奝然はまた自から御丈三尺余の釈迦像一軀を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより世に四條京極の釈迦堂と呼ばれた。鎌倉期の一遍聖絵巻に「弘安七年閏四月十六日関寺より四條京極の釈迦堂にいり給ふ。貴族上下群をなして人はかえり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき一七日ののち因幡堂にうつり給ふ」とある、すなわち一遍上人が大津関寺から入洛四條京極の釈迦堂にて念佛賦算をしたというのはこの寺のことである。金蓮寺よりも釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかいりも深いであるが、室町時代はどの寺社にも属しておらず時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持傳耒されて耒たが、偶々足利義満が嘉慶二年十二月二十日金蓮寺に寄進したため本来顛倒して金蓮寺の塔頭になった。

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