またふりじんじゃ
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楽しみ方末多武利神社のお参りの記録一覧

正覚院様でのお参りの後 宇治川沿いから
左に逸れる「さわらびの道」を歩くと
末多武利神社様(マタフリジンシャ)が鎮座されています。
御祭神は
藤原忠文(フジワラノタダフミ)
をお祀りされています。
藤原忠文は平将門の乱の際は征東大将軍。
藤原純友の乱の際は征西大将軍に任ぜられた武官です。
ただ 将門の乱の際は忠文の到着する前に…
純友の乱の際は見せ場なく鎮圧されています。
論功行賞の際に大納言だった藤原実頼の反対により
恩賞を得ることが出来なかった忠文は947年に
75歳で逝去します。
この後 実頼の長男や娘が急死します。
これは忠文の怨念に違いないと噂が広がったため
末多武利神社を創建し忠文の怨念を鎮めたそうです。
小さなお社なのですが壮大な逸話がありました(´▽`)




末多武利神社(またふり~)は、京都府宇治市にある神社。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文の怨霊を鎮魂する社と言われている。
藤原忠文は平安中期の940年に参議の地位に着き、征夷大将軍として関東で勃発した平将門の乱の平定に向かったが、到着前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれ事件は解決。この時大納言の藤原実頼によって恩賞の対象から外され、忠文はこれを不満として辞任を申し出たが許されなかった。翌941年に征西大将軍として瀬戸内海で勃発した藤原純友の乱の追討に向かったが、大蔵春実らの活躍で到着前に解決し、またも忠文に戦功の機会はなかった。このことで忠文は実頼を深く恨み、死後も一族に取り憑いて祟ったとのこと。
当社は、宇治橋東詰から南に400m向かって左折し、坂道をちょっと上がった住宅街の中にある。歴史のエピソードはあるが、一般住宅の脇にある小さな社。ちなみに鎮座地の地名は宇治市宇治又振(またふり)。当社の社名が由来か。
参拝時は週末の午後、宇治神社から宇治上神社に向かう途中、間違えて遠回りしたおかげで当社を発見。宇治市の史跡紹介があったので参拝してみた。

神社入口。手前の道は、世界遺産の<宇治上神社>に通じている。

鳥居と社殿。

小さな社殿。

神社を横から。坂道にある。
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