かごしまじんぐう
鹿児島神宮
鹿児島県 隼人駅
【大隅國 式内社巡り】
鹿児島神宮(かごしま・じんぐう)は、鹿児島県霧島市隼人町内にある神社。式内社(名神大)で、大隅國一之宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は天津日高彦火火出見尊、豊玉比売命、相殿神は帯中比子尊(14代仲哀天皇)、息長帯比売命(仲哀天皇皇后)、品陀和気尊(15代応神天皇)、中比売命(応神天皇皇后)。
旧称は「大隅正八幡宮」、「国分八幡宮」。
社伝によると、創始は神代とされ、神武天皇の御代に天津日高彦穂穂出見尊の宮殿であった「高千穂宮」を神社としたものとされる。『八幡愚童訓』によると、欽明天皇の御代の544年に震旦国(インドから見た中国)の大王の娘が生んだ皇子が八幡神で、船で大海に出てやがて鎮西大隅の磯に辿り着いたとしている。このため当社は「正八幡」と呼ばれ、八幡宮の根本社であるとされる。『今昔物語集』にも、八幡神は大隅國に現れ、次いで宇佐に移り、石清水に跡を垂れたと記載されている。飛鳥時代の708年に旧社地(現石體(しゃくたい)神社社地、当社の北東300m)から現社地に遷座している。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「大隅國 桑原郡 鹿児嶋神社 大」に比定されており、のち大隅国の一之宮とされた。当時から歴代領主の篤い保護のもと広大な社地を有し、江戸末期まで1000石を有していた。戦国時代から江戸時代にかけては、島津氏の篤い崇敬を受けた。明治時代に入り、近代社格制度のもと官幣中社に列格し、のち官幣大社に昇格した。
当社は、JR日豊本線・隼人駅の北方1kmの小高い場所にある。平地部分に500mもの長い参道があり、境内入口から階段を登って台地上の社殿周りに辿り着く。社殿は大きく豪壮で大社の構え。瑞垣で囲まれた神域は広くはないが、社殿周りにいくつかの境内社や社務所なども集まっており凝縮感がある。境内自体は広く、神域外にも境内社が散在していて、例えば稲荷社などは社殿から10分ほど山の斜面を登ったところにある。敷地の広さ、社殿のスケールともに、さすが大隅國一之宮といったところ。
今回は、大隅國の式内社、大隅國一之宮、旧官幣大社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、遅い初詣の人が多いのか、かなり多くの参拝者が訪れていて、当社周辺の公道ではかなりの渋滞が発生していた。
境内の東南400mほどの公道上にある<大鳥居>。この背後50mほどのところに社号標もある。
参道を進んで参道左側にある<三の社(1社目)>
参道右側にある<三の社(2社目)>と<三の社(3社目)>。
三の社のすぐ後ろにある<鳥居>。
鳥居の後ろ、参道右側にある<奉納木馬>。
境内入口全景。ここから階段を徐々に登って行く。
階段を軽く登った先にある<神橋>。渡った先両側には<御門神社>がある。
左の御門神社の左側にある<御神馬舎>。清嵐号という4歳のサラブレッドがいるらしいが見えなかった。
さらに階段を登ったところ、左側にある<社務所>。御朱印はこちら。
社務所前から社殿方向を望む。もう少し階段を登る必要がある。
社務所の前、参道右側にある<雨の社>。
雨の社の背後には、樹齢800年の<御神木>が立っている。
さらに御神木の背後には<祓所>がある。
階段を登り切ったところにある、立派な<手水舎>。
参道突き当りは社殿正面ではなく、横(拝殿前)になる。
しかも拝殿前に賽銭箱はなく、拝殿奥の入口から参拝行列ができている。独特な変わった造り。(;゚Д゚)
少し高い位置の拝殿正面を見上げると、神社幕の間から<正八幡宮>の扁額が見える。
拝殿の脇の小階段を登る。
階段途中から見える<拝殿>正面。
小階段を登って右方向に進むと、そこが参拝場所になっていて賽銭箱がある。
1月上旬の日曜日ということもあり、昇段参拝者も多くいた。
参拝を終え前方に進むと<授与所>があって人だかりができている。
拝殿後ろの<本殿>。サイズはかなり大きい。雰囲気からすると覆屋かな。
本殿の右側に建つ<四所神社>。
社殿の右方、四所神社の右側にある<武内神社>。
社殿の右方、武内神社の右側にある<隼風神社>。
隼風神社前から見た<社殿>全景。神域内は建物がみっちり建っていて集約感がある。
本殿の後方、少し離れた第三駐車場脇にある<招魂社>入口。
<招魂社>の社殿。
四社神社のすぐ後方、神域外にある<稲荷神社>入口。
社叢の中を5分ほどあるくと、アスファルトの道が現れ、その先に<大多羅知女神社>(左)と<山神神社>(右)が建っている。
そろそろ着くかと思って歩き続けるが、なかなか着かない。(^_^;)
さらに5分ほど歩き続けると、赤い鳥居の先に社殿が見えてくる。
社叢の中を軽く登っておよそ10分<稲荷神社>に到着。家族連れなど、意外と多くの人たちが稲荷神社まで登って来ていた。(^▽^)/
鹿児島神宮は、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』にて「大隅國之一宮・鹿兒嶋神社」に比定されている古社です。海幸彦山幸彦や神話によるところの社で、御祭神は、山幸彦天津日高彦穗穗出見尊とその妃神豊玉比賣命。創始は遠く神代、また神武天皇の御代とも伝えられています。朝廷の崇敬篤大社であり、境内は、御祭神天津日高彦穗穗出見尊の皇居高千穂宮跡と伝えられています。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
…(略)…。大隅國五座[大一座・小四座]。桑原郡一座[大]。鹿兒島神社[大]。囎唹郡三座[並小]。大穴持神社、宮浦神社、韓國宇豆峯神社。馭謨郡一座[小]。益救神社。
御祭神ごさいじんの彦穗穗出見尊ひこほほでみのみことは、開拓かいたくの祖神おやがみに坐ましましまし、この地に高千穂宮たかちほのみや(皇居こうきょ)を営いとなみ給い、580歳に亘わたらせらるる間、農耕畜産漁猟の道を指導し民生安定の基礎をつくり給うた御祭神ごさいじんです。
また、「今昔物語こんじゃくものがたり」の巻12第10話「於石清水いはしみづにして行放生会語はうじやうヱをおこなへること」にて、「初はじめ大隅おおすみの國くにに八幡大菩薩はちまんだいぼさつと現あらはれ在ましまして次には宇佐うさの宮みやに遷かえらせ給たまひ遂ついに此の石清水いわしみずに跡を垂たれ在ましまして」と記されていることから当地に八幡大神やはたのおおかみが顕現けんげんしたとも、承平天慶じょうへいてんぎょうの乱(935-941)の頃に「九州五所別宮きゅうしゅうごしょべつぐう(鹿児島神宮かごしまじんぐう・大分八幡宮だいぶはちまんぐう・千栗八幡宮ちりくはちまんぐう・藤崎八幡宮ふじさきはちまんぐう・新田神社にったじんじゃ)」の一社いっしゃとされたときに八幡大神やはたのおおかみを合祀ごうししたともされることから、正八幡しょうはちまん、国分正八幡こくぶしょうはちまん、大隅正八幡おおすみしょうはちまん等とも称され、全国正八幡しょうはちまんの本宮ほんぐうでもあります。
営繕えいぜんの費は、大隅國おおすみのくに、薩摩國さつまのくに、日向国ひゅうがのくにの三州さんしゅうの正税しょうぜいを以もって充あてられ、後鳥羽天皇ごとばてんのうの建久けんきゅう9年(1198)には車両2500余町歩の多きに至り、江戸末期まで1000石を有していました。明治4年に国幣中社こくへいちゅうしゃ、同7年に神宮号じんぐうごうを宣下せんげされ官幣中社かんぺいちゅうしゃ、同28年には官幣大社かんぺいたいしゃに列格されました。昭和10年には昭和天皇しょうわてんのうの行幸ぎょうこうを仰ぎ勅使ちょくし、皇族こうぞくの御参拝ごさんぱいは20余度に及んでいます。
現社殿しゃでんは桃園天皇ももぞのてんのうの宝暦ほうれき6年(1756)島津藩主しまづはんしゅ・島津重年しまづ しげとし公の造営ぞうえいによるものです。中央正座ちゅうおうせいざに天津日高あまつひだか彦穗穗出見尊ひこほほでみのみこととその妃神きさきがみの豊玉比賣命とよたまひめのみことを祀まつる鹿児島神宮かごしまじんぐう。その左右が大隅正八幡宮おおすみしょうはちまんぐうとなっており、左殿さでんに帯中比子尊たらしなかひこのみこと(仲哀天皇ちゅうあいてんのう)と息長帯比賣命おきながたらしひめのみこと(神功皇后じんぐうこうごう)、右殿うでんに品陀和気尊ほむだわけのみこと(応神天皇おうじんてんのう)、中比賣命なかひめのみこと(応神皇后おうじんこうごう)を配祀はいししています。県内最大の木造建造物として文化財的価値が高いため、平成2年に本殿ほんでん、拝殿はいでん、勅使殿ちょくしでんは県の有形文化財の指定を受けています。本殿ほんでんの構造は、柱間はしらまが正面7間けん、側面4間けんの入母屋造いりもやづくりで、正面に前室ぜんしつを設けてあります。本殿ほんでんの壁面は、薩摩藩さつまはんの画家、木村探元きむらたんげんの筆になると伝えられています。本殿ほんでんにつながる拝殿はいでんは縦長で、天井の格子こうしには、花や野菜、日本にはなかったサボテンの花、メロン、ケイトウ等が色彩豊かに描かれています。勅使殿ちょくしでんは神殿しんでん社殿しゃでんの入口に位置し、天皇から弊帛へいはくを託された勅使ちょくしをお迎えする所として作られています。近年の改修としては平成7年の本殿ほんでん・拝殿はいでん・勅使殿ちょくしでんの塗装の補修があげられ、拝殿はいでん天井の240余枚の植物が色鮮やかに蘇よみがえることとなりました。
神事しんじとしては、旧暦きゅうれき1月18日の次の日曜日に斎行さいこうされる初午祭はつうまさいが広く知られています。起源は不詳ふしょうですが、御祭神ごさいじんの天津日高あまつひだか彦穗穗出見尊ひこほほでみのみことが農耕畜産などの産業を奨励された御神恩ごしんおんに感謝して、五穀豊穣ごこくほうじょう・厄除招福やくじょしょうふくを祈る特殊とくしゅ祭典さいてんです。神宮じんぐうの創建そうけんより行われたと考えられており、養和ようわ元年(1181)神馬しんめを飼育していたと記録が残っています。一説に島津貴久しまづたかひさ公が天文てんぶん12年(1543)に見た霊夢れいむによるとの説もあります。当日は鈴懸馬すずかけうまに仕立てた御神馬ごしんめを先頭に、人馬一体じんばいったいとなって参道さんどうを練り歩き、社殿しゃでん前で神馬しんめとの踊りが奉納ほうのうされ、終日賑わいます。また、2000年を迎えるにあたり、昭和9年を最後に途絶えていた「浜下はまくだり」が平成12年、65振りに復興ふっこうされています。
境内けいだい社には、初午祭はつうまさいの出発地となっている保食神社ほしょくじんじゃが一ノ鳥居いちのとりい前に鎮座ちんざしています。二ノ鳥居にのとりいの前には、向かって右手手前に豊姫命とよひめのみことと磯良命いそらのみこと。奥に武甕槌命たけみかづちのみことと経津主命ふつぬしのみことが祀まつられています。向って左手には、火闌降命ほのすそりのみこと、大隈命おおすみのみことが祀まつられています。参道さんどうを進むと、右手に初午祭はつうまさいの神馬像しんめぞうが奉納ほうのうされた神馬舎しんめしゃ。そして宮橋みやばしを過ぎると両脇を御門神社みかどじんじゃが神社の守りを固めています。向って右手は豊磐窓命とよいわまどのみこと、左手は櫛磐窓命くしいわまどのみことが祀まつられています。
参道さんどうの階段を登って半ばに、豊玉比賣命とよたまひめのみことの父神ちちがみである豊玉彦命とよたまひこのみことを御祭神ごさいじんとして祀まつる雨之社あめのやしろ。建久けんきゅう年間(1190-1199)に植樹されたとされる御神木ごしんぼくの大クス、祓所はらえしょが続きます。
社殿しゃでん向かって右手には、四所神社ししょじんじゃ、武内神社たけしうちじんじゃ、隼風神社はやちじんじゃが並びます。四所神社ししょじんじゃは、品陀和気尊ほむだわけのみこと(応神天皇おうじんてんのう)と中日賣命なかつひめのみことの御子神みこがみである大雀命おほさざきのみこと(仁徳天皇にんとくてんのう) 、石姫命いしひめのみこと(仁徳天皇にんとくてんのうの妃神きさきがみ)、木之荒田郎女あらたのいらつめ 、根鳥命ねとりのみことを祀まつっています。武内神社たけしうちじんじゃは、景行けいこう・成務せいむ・仲哀ちゅうあい・応神おうじん・仁徳にんとくの5代の天皇に仕つかえたとされる武内宿禰たけしうちのすくねを祀まつっています。隼風神社はやちじんじゃの御祭神ごさいじんは日本武尊やまとたけるのみことです。
社殿しゃでん右手の駐車場に、護国ごこくの英霊えいれいを祀まつる招魂社しょうこんしゃ。山手への参道さんどうを進むと稲荷神社いなりじんじゃ、その参道さんどうの鳥居口とりいぐちに山神社やまがみしゃと大多羅知女神社おおたらちねじんじゃが門守社かどもりしゃ的に鎮座ちんざしています。稲荷神社いなりじんじゃの御祭神ごさいじんは、宇賀魂命うかのたまのみこと(天鈿女命あめのうずめのみこと)、大宮賣命おおみやのめのみこと、猿田彦命さるたひこのみこと。鳥居の向かって右側の社やしろは山神社やまがみしゃで大山祇命おおやまつみのみことが祀まつられています。左側の社やしろの大多羅知女神社おおたらちねじんじゃは、息長帯比賣命おきながたらしひめのみこと(神功皇后じんぐうこうごう)を祀まつっています。
由緒書きより
早朝の参拝の為、御朱印はいただけませんでした。
名称 | 鹿児島神宮 |
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読み方 | かごしまじんぐう |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
ホームページ | https://kagoshima-jingu.jp |
絵馬 | あり |
ご祭神 | 《主》天津日高彦穂穂出見尊,豊玉比売命,《配》帯中比子尊,息長帯比売命,品陀和気尊,中比売命 |
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体験 | 一の宮 |
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