たかだちぎけいどう
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高館義経堂の御朱印・御朱印帳
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岩手県西磐井郡平泉に在り世界遺産平泉中尊寺、毛越寺や道の駅平泉等程近い所に所在、行く際の注意は冬季休業在りで3月15日辺りまで休む様で毎年若干違うらしいです、拝観料は在ります、「夏草や 兵どもが 夢の跡」丘の上にあるこの場所は、悲運な最期を遂げた英雄・源義経を思ってか、松尾芭蕉がこの有名な句を詠んだ地です。
義経堂(ぎけいどう)は北上川を見下ろす「高館」(たかだち)と呼ばれる高台にある。
判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれる。
源頼朝に追われ、藤原秀衡を頼って平泉に逃れた義経が、文治5年(1189年)、最期を遂げ た居館のあった場所とされている。
源義経像 義経は藤原氏4代・泰衡に襲われ、妻子とともに自害した。
義経の首は鎌倉へ送られ、遺体だけがこの地に埋められて、そこに小さな祠が建てられた 。
祠は年月とともに風化したので、天和3年(1683年)、仙台藩主第4代・伊達綱村(だてつなむら)が新たに義経堂を建立した。
現在の堂は1808年に再建されたもの。
宝暦年間(1751~1763年)の作とされる甲冑姿の義経像が本尊として祀られており入り口にて御朱印直書きにて頂けます、歴史的建造物、パワースポット、仏閣、神社巡り、絶景、景色撮影、松尾芭蕉の軌跡、世界遺産平泉観光、参拝、散策、道の駅、散歩、御朱印集め好きな方は是非訪れて見て下さい。
松尾芭蕉の有名な句の一つに
夏草や 兵どもが 夢の跡
がある。
この句を詠んだ場所が平泉の高館義経堂だ。
俳聖・松尾芭蕉が門人・曽良を伴い、平泉を訪れたのは元禄2年(1689)旧暦5月13日(6月29日)のこと。高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経公を思い、かの名句を詠みました。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落し待りぬ。
夏草や 兵共が 夢の跡
(毛越寺の説明より)
源義経という人物があまりにもカリスマ性があり、舞台やドラマなどでもイケメンが演じるものだから脇に置かれがちだが、ここで言われている兵どもの主役は寧ろ藤原家ではないかと思うのだ。奥州にて栄華を誇り、中尊寺、毛越寺などの素晴らしい寺の建立と。その藤原氏のあっけない滅亡。その後は平泉の地は芭蕉が詠んだような状態であったのだろう。
昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために塔を造立しました。祖父、父の志を継ぎ、奥州藤原文化を築き上げた秀衡公、運命に翻弄され、この平泉で31歳という短い人生を終えた義経公、そして、義経公を信じ戦い抜いた弁慶。それぞれの生涯に思いを馳せ、心からの供養を行うのに、この高館はふさわしい場所だと思われます。(毛越寺の説明より)
本当に源義経という人間は運命に翻弄された人物であったと思う。源義経がいなければ源氏は天下を取れなかったという活躍をしたにも関わらずの兄頼朝の仕打ち。頼朝も人間不信になっていたのだろう。他にも弟・範頼をも謀反の疑いで殺している。
東北の夏に相応しい合歓の花の咲く中、源義経、藤原氏に想いを馳せるひと時であった。
毛越寺が管理している。御朱印は書置きで毛越寺の袋に入れて頂いた。
見事な合歓の花が迎えてくれたのであった。
この階段を上がっていくのだ。
下に流れるは北上川。素晴らしい眺めだ。
夏草や 兵どもが 夢の跡
松尾芭蕉の句碑がある。
義経堂 雄姿を忍びし 合歓の花
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