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大避神社(赤穂市坂越1297)
千種川流域の開拓を進めた秦河勝(大避大神)を祀る神社で647年に秦河勝の死去後、地元の民がその霊を祀ったのが大避神社の創建とされています⛩️
神社正面から見える海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域とされています😊
この地域は瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財に指定)で知られてます☺️





















写真の宝珠山頂は播磨の山城、茶臼山城跡です(途中に坂越浦城や以前投稿した妙見寺も在ります)

生島(しまった…アングルは微妙でした…)

御朱印はタイミングが悪く(前回もでしたが)今回は代わりに投稿します、赤穂市日本遺産の御周印です☺️
赤穂市観光協会でいただきました😊

兵庫県赤穂市坂越に鎮座する大避神社さんに初参拝。
参道南側にある観光駐車場に車を停めさせていただきました。
日本遺産に認定されている坂越の街並みをゆっくりと散策したいところだったのですが、既に夕方も近付いてきていたため、散策は断念して大避神社へと向かいました。
拝殿から横に続く絵馬堂には、様々な絵馬や祭礼の船渡御に使用された楽船が展示されていました。
また拝殿で参拝後、ふと見上げると拝殿天井には花鳥獣画がありました。
大避神社の「坂越の船祭」は、300年以上の歴史があり、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
毎年10月の第2日曜日に神幸式が行われるそうで、御祭神の秦河勝公の御分霊を御輿に乗せ、坂越湾に浮かぶ生島にある御旅所に向け和船で御渡しする神事です。
<御祭神>
主祭神:大避大明神(秦河勝公)
配祀神:天照皇大神 春日大神
この御祭神である秦河勝公とは。
参道入り口の案内板に以下のように記されていました。
『秦氏は百済から渡来して帰化した弓月君を祖とし、土木、養蚕、機織などの技術を発揮して、大いに栄えた古代氏族です。
その中でも秦河勝は、飛鳥時代前半(6世紀末~7世紀半ば)に聖徳太子に仕え、山背国葛野郡太秦(現在の京都府京都市右京区太秦)に広隆寺を創建したことで有名です。
大避神社の縁起によれば、秦河勝は聖徳太子死後の皇極3(644)年9月12日に、蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着し、千種川の開拓を進めたのち大化3(647)年に坂越の地で没したと言われています。
坂越湾に浮かぶ生島(樹林は国指定天然記念物)には、秦河勝の墳墓と伝える古墳が今も残されています。』


参道はゆるやかな坂道

社号標

階段を上がった先に随神門


随神門の外側には右大臣と左大臣


随神門の内側には仁王像


拝殿


拝殿内の天井画

本殿

楽船

絵馬の一つ


淡島神社

新宮

恵美須神社


天満神社

随神門前からの景色
向こうに見えている島が生島




兵庫県赤穂市にある神社です。
相生市にも同名の神社があります。
主祭神は大避大神(おおさけのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすおおかみ)、春日大神(かすがおおかみ)です。
ウィキペディアから借稿
秦河勝の祖である秦氏は3世紀頃に大陸より倭国へ渡来した氏族であり、秦河勝は飛鳥時代の族長的人物として聖徳太子の同志として活躍した人物である。
河勝は太子死後の皇極3年(644年)、海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去、そして地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建という。神社正面の海上に浮かぶ生島(国の天然記念物)には秦河勝の墓があり神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じている。
茶臼山に登っていく途中にあります。
本殿から少し歩くと見晴らしの良い展望広場があり、観光客も多く訪れています。
小学校跡だと言われる場所には遊具がありました。
拝殿には、雅楽で有名な東儀氏一族の方と思われる東儀俊美さん奉納の船がありました。
塩回船の港町として栄えた坂越らしい伝統行事、船祭りでの奉納でしょうか。
お参りした時間が遅く、御朱印は拝受できませんでした。


























写真












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