ほうおんじ|浄土宗鎮西派|惠光山
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方100年後に神社お寺を残せる未来へ
法園寺について
佐々成正公墓所
おすすめの投稿

続いて浄土宗の法園寺。佐々成政公墓所ということで尼崎は佐々成政公が秀吉の命により切腹して果てた終焉の地らしい。成政公が統治した肥後にはそのあとに加藤清正公が入っているので・・・。境内左手に成政公お墓の複製があったのでお詣り。インターホン横に「御朱印はありません」と貼られていたので前で合掌してまいりました。
佐々成政公の菩提寺と言えば京都の慈眼寺もあり、あちらは成政公の次女・嶽星院(鷹司信房室)の創建。嶽星院の娘が実は三大将軍家光公の御正室・本理院ですので成政公の名が不名誉のまま終わらなかったのは娘の嶽星院と孫娘の本理院の力が大きかったのかも知れません。法園寺にこの御二方が関わっていたのかは不明ですが全く関わりないとはさすがに思えないのでお聞きしてみたいですね・・・😊

山門

佐々成政公墓所石標。

案内板

佐々成政公墓(レプリカ)本物は本堂内とのこと。

佐々成正公生涯。

尼崎寺町七福神と成政公肖像

本堂

浄土宗鎮西派 恵光山 謝徳院 法園寺
尼崎寺町七福神めぐり 布袋尊
佐々成政公の墓碑があるお寺になります。
大変申し訳ないのですが、山門内には入らず外より合掌させていただき後にしました。
<御本尊> 阿弥陀如来
<由緒>
開基は天文年間(1532-55)、勝誉恵光法園上人と伝えられ、元和年間(1615-24)に寺町に移転しました。 当寺には佐々成政の墓碑があります。
成政は織田信長に仕え、猛将として名を馳せ、その功により越中守に任じられます。
本能寺の変後は、織田信雄(信長の次子)を奉じ天正12年(1584)小牧長久手戦に参戦します敗れ、のち豊臣秀吉に属することになります。
肥後守在任中、領地内で反乱がおこり、その責により幽閉され、天正16年(1588)閏5月14日に切腹を命じられます。 恨みの秀吉のいる大坂城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。
寺宝として、後陽成天皇(1571-1617)直筆の和歌一首「なき人のかたみの雲やしぐるらん 夕の雨に途はみえねと」の掛軸や成政肖像画などがあります。
特に山門の内に桐、外には菊の紋があり、由緒ある寺院を偲ばせています。

歴史
法園寺は、室町時代に勝誉恵光法園上人が開基したと伝えられています。中世には別所町(現東本町3ー4丁目)にあり、近世尼崎城築城にともない元和年間(1615-1624)に寺町へ移転したと考えられます。また、当寺には佐々成政の墓碑があります。成政は豊臣秀吉のもとで肥後国主在任中、領地内で反乱がおこり、その責により天正16年(1588)尼崎で切腹させられました。山門を入って西側の墓碑は複製で、実物は本堂内に保管されています。
歴史をもっと見る|| 名称 | 法園寺 |
|---|---|
| 読み方 | ほうおんじ |
| 電話番号 | 06-6411-6108 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
| ご本尊 | 阿弥陀如来 |
|---|---|
| 山号 | 惠光山 |
| 院号 | 謝德院 |
| 宗旨・宗派 | 浄土宗鎮西派 |
| 創建時代 | 天文年間(1532~55:境内案内板)、1561年(永禄4年:Wikipedia) |
| 開山・開基 | 伝、玉蓮社勝誉恵光法園上人 |
| ご由緒 | 法園寺は、室町時代に勝誉恵光法園上人が開基したと伝えられています。中世には別所町(現東本町3ー4丁目)にあり、近世尼崎城築城にともない元和年間(1615-1624)に寺町へ移転したと考えられます。また、当寺には佐々成政の墓碑があります。成政は豊臣秀吉のもとで肥後国主在任中、領地内で反乱がおこり、その責により天正16年(1588)尼崎で切腹させられました。山門を入って西側の墓碑は複製で、実物は本堂内に保管されています。 |
| 体験 | 武将・サムライ有名人のお墓札所・七福神巡り |
ホトカミのデータについて
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社お寺
法園寺に関連する記事
おすすめのホトカミ記事
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ






























7
0