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多田神社の御朱印・御朱印帳
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いつかはお参りしたいと思っていた神社の一つ、多田神社です。
創建は天禄元年(970年)とされ、もともとは多田院と号した天台宗の寺院だったようですが、神仏分離令により多田神社となったそうです。
以下は多田神社HPより
源氏発祥の地である多田は、源満仲公が摂津国一の宮住吉大神の御神託を受けてこの地に館を構え、荘園開発及び武士団を構築しました。子孫である清和源氏一門は繁栄を重ね、鎌倉・室町・江戸と約700年に亘る武家社会の担い手となったのであります。
<御祭神>
一の宮 源満仲公
二の宮 源頼光公
三の宮 源頼信公
四の宮 源頼義公
五の宮 源義家公
<御由緒>
主祭神源満仲公、天禄元年(970)当時、攝津守であった公が一の宮住吉明神(現在の住吉大社)に参籠、御神託を蒙り此の地を開拓、源氏の居城となし(本朝、城の初まり)円融天皇より此の城をもって禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべしとの勅諚を賜ったとある。
そして公75歳の御時勅許を得て仏門に入り一寺を創設して公24歳の自影を安置して国家守護武運長久の霊場となして、多田院と号した。
長徳3年(997)満仲公薨去の後その廟所の造営と満仲像を祀る御影堂が中心となって多くの寺坊が建立された。
多田院は別称を鷹尾山法華三昧寺と呼んだが、宗派は開創当時は天台宗(満仲公末子源賢僧都延暦寺修行)から後年西大寺忍性の再建以来真言律宗に転じた。
当社所蔵の古文書のうち、貞応2年(1223)9月24日付の北条泰時の書状によれば、泰時が多田院に対し代官使の入部を停止させていることがわかる。
いらい鎌倉幕府は、多田院を重要視しており、文永10年(1273)4月にいたっては、多田院造営を督励し、時に造営奉行として僧良観(忍性)にあたらせた。
(中略)
当社縁起によれば、足利尊氏は建武3年(1336)3月2日の九州多々良浜の合戦以前に多田の由緒を伝え聞いて多田院を崇敬したと伝えている。事実現存古文書のうちに、建武3年3月25日付尊氏戦捷祈願の御教書がある。ついで建武4年(1337)7月25日には、尊氏は攝津善源寺東方地頭職を寄進している。そして延文3年(1358)4月30日尊氏が没すると、同6月29日付で義詮は父尊氏の遺骨を多田院に納めている。いらい多田院と足利家の関係は益々密となり、歴代将軍の没後は必ず尊氏に倣っている。
御朱印
猪名川
南大門(県指定重文)
仁王像がもともといらっしゃったのかな?
と思っていたら明治4年に満願寺の山門に
移されたそうです。
手水舎
清和源氏系図
随神門(国指定重文)
徳川四代将軍家綱公により再興されたそうです
拝殿(国指定重文)
御本殿(国指定重文)
徳川四代将軍家綱公により寛文七年(1667年)創建
招霊木(おがたまのき)
拝殿向かって左側
神馬舎
遙拝所
水戸黄門様の御手植銀杏
多田院天満宮
不思議の銀杏 七種の宿木?
九頭竜伝説
三ツ矢家の姓のお話です
鷹狩り伝説
三ツ矢サイダーの源泉にまつわるお話です
旧多田院釈迦堂趾
田尻稲荷神社
厳島神社(県指定重文)
金比羅宮
左 磐鹿六鴈命(料理の神様)
右 包丁塚
六所宮鳥居
六所宮(県指定重文)
左から熊野、春日、賀茂、天照、稲荷、住吉
西門(県指定重文)
もちろん東門もありますが、そちらには今回立ち寄っていません。
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