みなとがわじんじゃ
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楽しみ方湊川神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年01月05日(月) 03時15分55秒
参拝:2025年12月吉日
逆時計回りに歩いて湊川神社様の拝殿の前に
到着しました。
主祭神は
楠木正成(スクノキマサシゲ)(大楠公)
配祀として
嫡男の楠木正行(クスノキマサツラ) (小楠公)
弟の楠木正季(クスノキマサスエ)
他にも御一族や家臣をお祀りされています。
湊川神社様は明治天皇の勅命によって1872年に
創建されています。
この地はかつて「湊川の戦い」があった場所です。
新田義貞が率いる主力2万5千は九州から水陸で
攻め上る足利勢を迎え撃つために和田岬に
布陣しました。
しかし足利勢は和田岬よりも東の生田の森から
上陸し新田義貞の軍勢の背後を突く動きを
見せます。背後からの強襲を避ける為に新田勢は
撤退し楠木勢は孤立させられました。
そんな劣勢の中で正成は50万(太平記の記述)
(リアルに考えると3万~5万)の足利軍へ僅か700騎
で突撃を繰り返し足利軍を苦戦させます。
しかし衆寡敵せず 次第に押し込まれ正成は弟の
正季と自刃して果てました。
知略に長け勇猛果敢な正成は戦国武将からも
絶大な人気を誇りました。尼崎藩二代藩主であった
青山幸利も正成を熱烈に慕っていました。
(幸利の墓は正成の墓所の方を向いていたそうです)
幸利は人気はあっても整備がされていなかった
正成の墓所に梅と松を植え五輪塔を建てました。
その後 水戸藩の徳川光圀が正成の天皇へ忠義を
尽くす姿が国家の道徳的模範になるとして
この地に墓碑を建立します。
墓碑の碑文は「嗚呼 忠臣楠子之墓」光圀の自筆です。
この尊皇思想は水戸学と呼ばれ江戸後期の
徳川斉昭の代に攘夷を加えたのが「尊皇攘夷」と
いう言葉になり明治維新の思想的原動力になって
いきます。
光圀の建てた墓碑があることで維新の志士達も
訪れた この地に明治政府が忠誠の模範として
また自らの正当性を主張する意味でも
湊川神社様を創建したのは当時の時勢を考えれば
自然な流れだったのかもしれません。
社殿の奥の甘南備神社では大楠公の奥方である
久子がお祀りされています。これは石碑?社号標?
のみ確認出来ました。
この甘南備神社様の社号は久子が産まれた
場所であり 正成が戦に敗れ没した後に出家して
一族の菩提を弔った楠妣庵観音寺様のある
富田林市の「甘南備」という地名に由来しています。
楠妣庵観音寺様は焼失していたのですが
明治維新の後の大楠公顕彰の流れで1917年に
再興されています。
「非理法権天」
理のない者は理のある者に勝てず
理があっても法には勝てず
法に則っていても権力には勝てず
権力があっても天には勝てず
楠妣庵観音寺様でも掲げられている 大楠公の
旗印だったこの文字がお詣りの最中に頭から
離れませんでした。
到着しました。
主祭神は
楠木正成(スクノキマサシゲ)(大楠公)
配祀として
嫡男の楠木正行(クスノキマサツラ) (小楠公)
弟の楠木正季(クスノキマサスエ)
他にも御一族や家臣をお祀りされています。
湊川神社様は明治天皇の勅命によって1872年に
創建されています。
この地はかつて「湊川の戦い」があった場所です。
新田義貞が率いる主力2万5千は九州から水陸で
攻め上る足利勢を迎え撃つために和田岬に
布陣しました。
しかし足利勢は和田岬よりも東の生田の森から
上陸し新田義貞の軍勢の背後を突く動きを
見せます。背後からの強襲を避ける為に新田勢は
撤退し楠木勢は孤立させられました。
そんな劣勢の中で正成は50万(太平記の記述)
(リアルに考えると3万~5万)の足利軍へ僅か700騎
で突撃を繰り返し足利軍を苦戦させます。
しかし衆寡敵せず 次第に押し込まれ正成は弟の
正季と自刃して果てました。
知略に長け勇猛果敢な正成は戦国武将からも
絶大な人気を誇りました。尼崎藩二代藩主であった
青山幸利も正成を熱烈に慕っていました。
(幸利の墓は正成の墓所の方を向いていたそうです)
幸利は人気はあっても整備がされていなかった
正成の墓所に梅と松を植え五輪塔を建てました。
その後 水戸藩の徳川光圀が正成の天皇へ忠義を
尽くす姿が国家の道徳的模範になるとして
この地に墓碑を建立します。
墓碑の碑文は「嗚呼 忠臣楠子之墓」光圀の自筆です。
この尊皇思想は水戸学と呼ばれ江戸後期の
徳川斉昭の代に攘夷を加えたのが「尊皇攘夷」と
いう言葉になり明治維新の思想的原動力になって
いきます。
光圀の建てた墓碑があることで維新の志士達も
訪れた この地に明治政府が忠誠の模範として
また自らの正当性を主張する意味でも
湊川神社様を創建したのは当時の時勢を考えれば
自然な流れだったのかもしれません。
社殿の奥の甘南備神社では大楠公の奥方である
久子がお祀りされています。これは石碑?社号標?
のみ確認出来ました。
この甘南備神社様の社号は久子が産まれた
場所であり 正成が戦に敗れ没した後に出家して
一族の菩提を弔った楠妣庵観音寺様のある
富田林市の「甘南備」という地名に由来しています。
楠妣庵観音寺様は焼失していたのですが
明治維新の後の大楠公顕彰の流れで1917年に
再興されています。
「非理法権天」
理のない者は理のある者に勝てず
理があっても法には勝てず
法に則っていても権力には勝てず
権力があっても天には勝てず
楠妣庵観音寺様でも掲げられている 大楠公の
旗印だったこの文字がお詣りの最中に頭から
離れませんでした。
すてき
みんなのコメント(2件)
ナッツ2024れん太郎さん
おはようございます😃
湊川神社は以前、神戸に立ち寄った時に参拝させていただいて、とても雰囲気の良い神社でしたので、懐かしく、れん太郎さんのご投稿を拝見させていただきました☺️
楠木正成公ゆかりの神社と言うのは、参拝して解ったのですが、れん太郎さんの詳しい歴史解説から、とても勉強になりました!☺️
ありがとうございます!
🙇♀️🙇♀️🙇♀️🙇♀️🙇♀️
2026年01月05日(月) 06時17分15秒
ナッツさん♪
こんにちわ(^▽^)
コメントありがとうございます☆
拙い投稿を読んで頂いていて重ねて
ありがとうございます☆
歴史の教科書に出てくるような人物が
関係している寺社にお詣りにいくと
とても身近に その人物を感じてしまい
投稿の際に熱くなっちゃいます(^-^;
またいつかナッツさん♪の興味を
惹けるような投稿が出来るように
頑張ります(p^-^)q
2026年01月05日(月) 13時05分01秒
投稿者のプロフィール

れん太郎1512投稿
元々は休日に景勝地へドライブが趣味で、神社仏閣もお参りするのが好きでした。 年齢を重ねて夫婦で何か形のあるものを残したいと考えていたところ、細君より御朱印集めを提案され令和六年三月より始めました...もっと読む
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