やくよけのみや こまがばやしじんじゃ
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厄除の宮 駒林神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年01月04日(火)
参拝:2021年12月吉日
神戸市長田区の漁港のすぐ近く、「いかなごのくぎ煮」発祥の地に鎮座する神社です。
境内の由緒書は文字が消えかけていて読み取れない部分があったので、駒林神社HPに掲載の御由緒を紹介させていただきます。
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当社は務古の水門の一部にあたり治承2年(1178)には平清盛が上陸したとの記録(『山槐記』)もあり、古代の要津であった。そのため、来朝する外国人を検問する玄蕃寮(現在の税関にあたる)の出先機関があり、当社は、その役所内に奉斎された事に始まると伝えられる。延元元年(1336)、足利尊氏が西国敗走の折、当社に奉詣して
今むかふ 方は明石の 浦ながら
まだ晴れやらぬ 我が思ひかな
と詠んで、社前の浜より乗船したという。
文政13年(1830)、髙井山城守石原清左衛門が社殿を改築し、井戸ノ町若中より狛犬一対が奉納される等、社頭整備が進み、明治26年、拝殿が新築された。その後荒頽したが、大正13年、社殿等大いに修築し、八王子八幡神社に若宮社を始め、村内の小祠を合祀し、「駒林神社」と改称した。
大東亜戦争中被災する事も無かったが、昭和63年、社殿焼亡、翌平成元年に再建するも、平成7年の阪神淡路大震災に被災、同年社殿復旧、同10年社務所を再建し、平成25年第62回神宮式年遷宮と出雲大社遷座祭を奉祝し大鳥居を再建され、共に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮発祥の地」である事を記した石碑が建てられた。
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また「厄除の宮」と呼ばれているのは、
『平安時代、大陸との貿易が盛んに行われていた頃、駒ヶ林にあった玄蕃寮の出先機関は入国管理所や税関の役割を持っており、国内へ災いが入らないよう取り締まりを行っていた。
その邸内社であった事から、厄災を祓う宮「厄除の宮」として崇敬されている。』
とのことらしいです。
境内の由緒書は文字が消えかけていて読み取れない部分があったので、駒林神社HPに掲載の御由緒を紹介させていただきます。
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当社は務古の水門の一部にあたり治承2年(1178)には平清盛が上陸したとの記録(『山槐記』)もあり、古代の要津であった。そのため、来朝する外国人を検問する玄蕃寮(現在の税関にあたる)の出先機関があり、当社は、その役所内に奉斎された事に始まると伝えられる。延元元年(1336)、足利尊氏が西国敗走の折、当社に奉詣して
今むかふ 方は明石の 浦ながら
まだ晴れやらぬ 我が思ひかな
と詠んで、社前の浜より乗船したという。
文政13年(1830)、髙井山城守石原清左衛門が社殿を改築し、井戸ノ町若中より狛犬一対が奉納される等、社頭整備が進み、明治26年、拝殿が新築された。その後荒頽したが、大正13年、社殿等大いに修築し、八王子八幡神社に若宮社を始め、村内の小祠を合祀し、「駒林神社」と改称した。
大東亜戦争中被災する事も無かったが、昭和63年、社殿焼亡、翌平成元年に再建するも、平成7年の阪神淡路大震災に被災、同年社殿復旧、同10年社務所を再建し、平成25年第62回神宮式年遷宮と出雲大社遷座祭を奉祝し大鳥居を再建され、共に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮発祥の地」である事を記した石碑が建てられた。
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また「厄除の宮」と呼ばれているのは、
『平安時代、大陸との貿易が盛んに行われていた頃、駒ヶ林にあった玄蕃寮の出先機関は入国管理所や税関の役割を持っており、国内へ災いが入らないよう取り締まりを行っていた。
その邸内社であった事から、厄災を祓う宮「厄除の宮」として崇敬されている。』
とのことらしいです。
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