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刈田神社ではいただけません
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刈田神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年09月22日(金)
参拝:2023年8月吉日
当神社の創祀は明らかではないが、『北海道縁起物語』によると、平安朝には前身となる妙見菩薩の祠があったという。
天明6年(1786)
幌別郡(現・登別市)が松前藩士細田儀右衛門の給地に指定されたのを契機に、妙見菩薩の祠を再建し、胆振地方の鎮守社とするため保食神を合祀し、妙見稲荷社と称した。
明治3年(1870)
白石藩城主片倉小十郎邦憲が家臣百五十余名を従え胆振国幌別郡へ移住し、片倉氏の総守護神刈田嶺神社(延喜式内社、陸奥国刈田郡総鎮守、別名・白鳥大明神)の御祭神である日本武尊の御分霊を奉じて合祀し、幌別郡開拓の守護神とする。
明治4年(1871)
御社殿を幌別村字浜七十番地(現・幌別町一丁目)に新しく建立し、社名を刈田神社と改称し、これより幌別郡の開拓者の心の支えとして御鎮座する。
明治6年(1873)
四国からの開拓者が金比羅宮(式内社、旧国幣中社)の御分霊を奉じて合祀する。
明治8年(1875)
幌別郡の郷社と公称する。
大正15年(1926)
現在の境内地(中央町六丁目)へ御遷座する。
終戦後、神社本庁包括宗教法人となる。
令和3年には、社名を刈田神社に改称してから150周年を迎える
由緒より
天明6年(1786)
幌別郡(現・登別市)が松前藩士細田儀右衛門の給地に指定されたのを契機に、妙見菩薩の祠を再建し、胆振地方の鎮守社とするため保食神を合祀し、妙見稲荷社と称した。
明治3年(1870)
白石藩城主片倉小十郎邦憲が家臣百五十余名を従え胆振国幌別郡へ移住し、片倉氏の総守護神刈田嶺神社(延喜式内社、陸奥国刈田郡総鎮守、別名・白鳥大明神)の御祭神である日本武尊の御分霊を奉じて合祀し、幌別郡開拓の守護神とする。
明治4年(1871)
御社殿を幌別村字浜七十番地(現・幌別町一丁目)に新しく建立し、社名を刈田神社と改称し、これより幌別郡の開拓者の心の支えとして御鎮座する。
明治6年(1873)
四国からの開拓者が金比羅宮(式内社、旧国幣中社)の御分霊を奉じて合祀する。
明治8年(1875)
幌別郡の郷社と公称する。
大正15年(1926)
現在の境内地(中央町六丁目)へ御遷座する。
終戦後、神社本庁包括宗教法人となる。
令和3年には、社名を刈田神社に改称してから150周年を迎える
由緒より
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