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法楽寺ではいただけません
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ほうらくじ|真言宗豊山派八幡山

法楽寺
群馬県 藪塚駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
パーキング
駐車場
あり

境内前にあり

その他の巡礼の情報

上州新四国八十八ヶ所霊場 第五十一番
東上州三十三観音霊場 第二十五番

法楽寺について

賀茂神社の元別当寺
寺号は、賀茂神社で戦勝祈願をした八幡太郎源義家が、お礼参りで奉納した舞に因む。
寺院前には、法楽の舞が舞われたという舞台遺跡がある。

群馬県のおすすめ🌸

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おすすめの投稿

くし
2022年02月18日(金)
1450投稿

賀茂神社に隣接してお寺もあったので、そちらにも立ち寄ってみました。

和銅元年 行基による開山。
その後、八幡太郎義家が前九年の役で奥州に向かう途中、賀茂神社に立ち寄り戦勝を祈願。
帰りにも戦勝のお礼参りに訪れ、寺社の前に舞台を作り「法楽の舞」というのを奉納。
同時に敵味方問わずの慰霊のためお寺を建て直し「八幡山法楽寺」と名付けたのが縁起だそうです。

賀茂神社と並んでここも千年近い古刹か・・・何気に凄いねこの辺り(゜゜;)

静かな佇まいの山寺にふさわしく、ここでは特に何も起こらずつつがなく受印。
最後の最後でやっとマトモな寺社感覚を取り戻せたようですw

法楽寺の御朱印

久しぶりに直書きをいただき♪

法楽寺の鳥居

右が賀茂神社 左が法楽寺
間に見えるのが神籠石に続く山道らしい

法楽寺の建物その他

再び地図を参照
法楽寺前の舞台遺跡というのが、源義家が「法楽の舞」を舞わせたところ

法楽寺の建物その他

この写真を撮った辺りが舞台遺跡か?

法楽寺(群馬県)

山門
しまった!このお寺、本堂撮影するの忘れてた(>_<)

法楽寺の建物その他

右側におびんずる様

法楽寺の建物その他

左側に観音様や六地蔵
手前の丸石は合祀墓ですかね?

法楽寺の御朱印

このお寺には御正体という重要文化財があります。
ちなみに「みしょうたい」と読むらしい

法楽寺(群馬県)

正体を現した御正体w
本地垂迹説に基づいた神仏習合の像
ちなみにここの本尊は千手観音ですが、これも十一面観音と不空羂索観音を合体させたような独特の像容をしてるそうです

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たかく
2019年10月17日(木)
133投稿

当寺は、和銅元年、行基菩薩が諸国行脚の折り当地に立寄り小寺を造営し、仏像を安置して行ったとされこれが当寺の始まりと言われている。
 その後、天喜5年(1057年)、藤原家、八幡太郎義家公は朝廷の命に随わぬ奥州の阿部貞任と宗任の兄弟を討伐するため、藤原家の勢力圏内でもある当寺に立ち寄り戦勝祈願をし、長い戦いの末阿部兄弟を討伐し、康平元年(1058年)3月、戦勝のお礼参りのため上野の国広沢郷の賀茂神社と当寺前に舞台を造営して、法楽の舞を奏上したと言われている。後にお供の周東刑部左ェ門は当地に残り、八幡太郎義家公の命により敵味方戦没者の慰霊のため、当寺を建て替え山号を八幡太郎の八幡を取り八幡山とし、寺号は法楽の舞を奏上したところから法楽寺と名付け、その後、元禄の始めに下野の国小俣の鶏足寺より祐伝法師を招請して法相宗より真言宗に移り大正まで護摩を焚き祈願道場でもあった。又神社分離前の明治に至るまでは賀茂神社の別当であり、八幡山賀茂ノ坊法楽寺と称し、明治までこの名で呼んでいた。
 当寺の本尊は千手観音立像であるが、十一面観音と三目八臂の不空羂索観音を合体させたような形を示す。製作時期は室町時代、又特殊な像容の像だが、県内では室町時代まで遡る作例は少なく、貴重な作例といえる。

法楽寺の本殿
法楽寺の山門
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法楽寺の基本情報

住所群馬県桐生市広沢町6丁目825
行き方
アクセスを詳しく見る
名称法楽寺
読み方ほうらくじ
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号0277-54-4457
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊《本尊》十一面千手観音
《御正体》毘沙門天・吉祥天・善風師童子
《堂宇》賓頭盧尊者
山号八幡山
宗旨・宗派真言宗豊山派
創建時代和銅元年(708年)
開山・開基(開基)祐伝法師 (開山)行基
文化財

法楽寺御正体 (桐生市指定重要文化財)

ご由緒

和銅元年、行基菩薩が諸国行脚の折り当地に立寄り小寺を造営し、仏像を安置して行ったとされこれが当寺の始まりと言われている。
その後、天喜5年(1057年)、藤原家、八幡太郎義家公は、朝廷の命に随わぬ奥州の阿部貞任と宗任の兄弟を討伐するため、藤原家の勢力圏内でもある当寺に立ち寄り戦勝祈願をし、長い戦いの末阿部兄弟を討伐し、康平元年(1058年)3月、戦勝のお礼参りのため上野の国広沢郷の賀茂神社と当寺前に舞台を造営して、法楽の舞を奏上したと言われている。
後にお供の周東刑部左ェ門は当地に残り、八幡太郎義家公の命により敵味方戦没者の慰霊のため、当寺を建て替え山号を八幡太郎の八幡を取り八幡山とし、寺号は法楽の舞を奏上したところから法楽寺と名付けた。
その後、元禄の始めに下野の国小俣の鶏足寺より祐伝法師を招請して法相宗より真言宗に移り大正まで護摩を焚き祈願道場でもあった。
又神社分離前の明治に至るまでは賀茂神社の別当であり、八幡山賀茂ノ坊法楽寺と称し、明治までこの名で呼んでいた。
当寺の本尊は千手観音立像であるが、十一面観音と三目八臂の不空羂索観音を合体させたような形を示す。製作時期は室町時代、又特殊な像容の像だが、県内では室町時代まで遡る作例は少なく、貴重な作例といえる。

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