西方山極楽寺の日常(103回目)|岐阜県名鉄岐阜駅
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投稿日:2021年01月17日(日)
門松は冥めい土どの旅の一いち里り塚づか
めでたくもありめでたくもなし
‐一休宗純‐
【意味】
門松を立て新年を迎えることは、一つ年を取って死に近づくことでもある。めでたいことであり、めでたくないことでもある。
【解説】
人々が新年を祝って騒ぐ京の街を、杖の先にどくろを刺した一休が練り歩き、人々からめでたい新年に不吉なことをするなと非難され恐れられたという逸話がある。それと合わせて伝えられるがこの一句である。
葬儀に参列すると清め塩をいただくことがある。死は穢けがれであり、それを持ち帰らないように身を清めるためである。そこには死は不吉なもの、遠ざけるべきものだという考えがある。
死を恐れるのは生物としての本能であり、身近な人の死は大きな悲しみをもたらす。決して避けられないことだが、出来る限り死を遠ざけようとするのは自然な思いだろう。
仏教では死は人間の苦しみの根本である「四苦」の一つとしている。避けようのない死という苦しみを、正しく理解して受け入れることが悟りを開き仏となることに繋がっていく。
命あるものは必ず死ぬ。その事実をしっかり見据え、無闇に恐れることなく、その上で死を恐れる心を受け入れる。そうすれば生きることにも死ぬことにも囚われず、悠然と冥土に向かって旅を続けられる。それが仏教の目指す理想の生き方である。
めでたくもありめでたくもなし
‐一休宗純‐
【意味】
門松を立て新年を迎えることは、一つ年を取って死に近づくことでもある。めでたいことであり、めでたくないことでもある。
【解説】
人々が新年を祝って騒ぐ京の街を、杖の先にどくろを刺した一休が練り歩き、人々からめでたい新年に不吉なことをするなと非難され恐れられたという逸話がある。それと合わせて伝えられるがこの一句である。
葬儀に参列すると清め塩をいただくことがある。死は穢けがれであり、それを持ち帰らないように身を清めるためである。そこには死は不吉なもの、遠ざけるべきものだという考えがある。
死を恐れるのは生物としての本能であり、身近な人の死は大きな悲しみをもたらす。決して避けられないことだが、出来る限り死を遠ざけようとするのは自然な思いだろう。
仏教では死は人間の苦しみの根本である「四苦」の一つとしている。避けようのない死という苦しみを、正しく理解して受け入れることが悟りを開き仏となることに繋がっていく。
命あるものは必ず死ぬ。その事実をしっかり見据え、無闇に恐れることなく、その上で死を恐れる心を受け入れる。そうすれば生きることにも死ぬことにも囚われず、悠然と冥土に向かって旅を続けられる。それが仏教の目指す理想の生き方である。
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