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坂本八幡宮の御由緒・歴史
歴史詳細情報
元号「令和」ゆかりの地
元号「令和」の出典は、歌集である『万葉集』の『梅花の歌』の序文にちなんで決められました。この『梅花の歌』は、太宰府の長官であった大伴家持(おおとものやかもち)が開いた『梅花の宴』で詠まれたものです。大伴家持の邸宅は坂本八幡宮の近くであったと考えられており、そのことにちなんで坂本八幡宮は「令和」のゆかりの地として知られるようになりました。
ご由緒
坂本八幡宮の鎮座する地域を太宰府といい、古来から九州の政治・軍事の中心地でした。9世紀ごろには、この地に天台宗の寺院がありました。九州では天台宗の寺院に中に八幡宮をおまつりすることが多く、この寺院でも八幡宮がまつられていました。その後に戦国時代になると、この寺院が廃れてしまった一方で、まつられていた八幡宮が一帯の鎮守として再興されていきました。この八幡宮が坂本八幡宮として今にも残っていると伝えられています。
立て札
坂本八幡宮縁起
この坂本八幡宮は土地神・産土神として崇拝されている神社で応神天皇を御祭神としています。
「圓満山四王寺縁起」に寄れば「嵯峨天皇弘仁二年(八一一)辛卯二月勅宣にて四王院に釈迦仁の像を造立し有智山寺の沙門鳳詮法師及行願具足の僧十一輩を写し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付し給ふ。鳳詮法師は坂本に住して全正寺と号す。又坂本坊と呼り。」とされ、平安時代にはこの坂本の地に四王寺の座主坊としての善正寺が成立していたとされています。
坂本にあったこの寺は中世は天台宗の寺院で、本山の比叡山に習い九州の天台系寺院には境内に八幡宮を祭る形が多く見られます。
当社の勧請時期は「福岡県神社誌」(一九四四刊)の記述によれば「天文・弘治の頃」(一五三二〜一五五七)の戦国時代とされていますが、おそらくこの頃に寺院が廃れ土地を経営する現在の坂本区の原型となる村落ができ、その村の鎮守として寺の境内にあった社が再興されたものと考えられます。
境内入り口南側にある「がらんさま」と呼ばれる立石は天台寺院の故地によく見かけられ、寺の中心地や結果となる境に置かれる事があるようです。
この場所が大字の境で「辻」という小字であることも、当社の鎮守としての性格を現しています。
古代には太宰府や九州を守護する寺であった四王寺が形を変えながら、現在では坂本区のの鎮守として生き続けています。坂本八幡宮の立て札より
ご祭神 | 品陀和気命(応神天皇) | |
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ご由緒 | 9世紀ごろには、この地に天台宗の寺院がありました。九州では天台宗の寺院に中に八幡宮をおまつりすることが多く、この寺院でも八幡宮がまつられていました。その後に戦国時代になると、この寺院が廃れてしまった一方で、まつられていた八幡宮が一帯の鎮守として再興されていきました。この八幡宮が坂本八幡宮として今にも残っていると伝えられています。 |
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