はちまんじんじゃ
八幡神社のお参りの記録一覧
【越前國 式内社巡り】
八幡神社(はちまん~)(敦賀市)は、福井県敦賀市三島町にある神社。式内論社で、旧社格は県社。主祭神は誉田別命、配祀神は五十日足彦命。旧称は「正八幡宮」、「築地八幡宮」。
創建は不詳。社伝によると、奈良時代の780年に神託があり、光仁天皇の勅命により藤原永手が社殿を造営し、八幡大神を奉斎したのが始まり。これより前の704年に勅により創建された石田神社の祭神、五十日足彦命(石田大神)を配祀しているが、この石田大神は平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている「越前國 敦賀郡 石田神社 小」に比定されている。なお当社は、神功皇后摂政13年(213年)皇太子であった誉田別命は武内宿禰とともに氣比大神を参拝したが、当社はその時の行宮跡とされ、当地の人々が砂で岡を築き行宮を建てたことから「築地八幡宮」の名があるとされる。
中世以降は皇室や武門の崇敬が篤く、鎌倉時代の元寇の際には勅宣により戦勝祈願をし、戦国時代には朝倉義景が社殿を造営している。1570年に織田信長の手筒山・金ケ崎城攻めの兵火で社殿を焼失したが、のち敦賀城主となった大谷吉継が城内の鎮守とし、江戸時代には小浜藩の歴代藩主の崇敬を受け、社殿の造営や社領の寄進があった。明治に入り、近代社格制度のもと郷社に列っし、のち県社に昇格した。
当社は、JR北陸本線・敦賀駅の北西1kmの、市街地の真ん中、平地にある。境内は社叢といえる敷地はないが、大きめの社殿、それを囲む瑞垣、社務所棟などが、割とゆったりと建っている。周りが住宅街で道幅が狭いが、旧県社らしい風格がある。
今回は、越前國の式内社、福井県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、自分以外には参拝者は見掛けなかった。
境内東端入口の<鳥居>と<社号標>。
鳥居の手前左側にある1組目の<狛犬>。新しいオーソドックスなタイプ。
鳥居の手前右側にある1組目の<狛犬>。
鳥居をくぐって、参道右側にある<手水舎>。
参道進んで左側にある<神馬>。
短い参道の突き当りにある<拝殿>。
拝殿手前左側の2組目の<狛犬>。良い感じに年季が入っている。水平投影面積が小さく、円柱形の狭い台に乗っている。
拝殿手前右側の2組目の<狛犬>。
拝殿の右手少し離れたところにある<社務所>。
拝殿の裏手に廻ると<中門>。本殿周りは瑞垣で囲われている。
中門前左側の3組目の<狛犬>。2組目の狛犬よりもさらに古そう。ちょっとエイリアン系。(^_^;)
中門前右側の3組目の<狛犬>。
<中門>内部。「八幡宮」と刻まれた扁額。ステンドグラスの電灯がハイカラでおしゃれ。(o^―^o)
奥には<拝所>がある。
拝所の手前右側の、4組目の<狛犬>。かなり個性的な風貌。古いのかな。
拝所の右奥にある境内社群。
拝所の手前左側の4組目の<狛犬>。
拝所の左側にある<天照皇大神宮・岩清水八幡宮>。
拝所の左奥にある境内社群。
最後に、拝所の後ろの<本殿>。(^▽^)/
何やら歴史をスゴく感じた神社でした。
朝倉義景が本殿を造営
疋田城主の疋田景継が阿弥陀仏像を奉納
年々御供米50石を寄進されました。
織田信長と朝倉義景とが戦った時に罹災したが、敦賀城主大谷刑部少輔吉隆が石燈籠一基を献納。
羽柴出羽守勝俊が幣帛を奉り
大谷吉隆が太刀一口を奉納。
京極忠高が神殿を修造した。
福井城主松平秀康の代参多賀越中守が奉幣百疋を奉り、毎年御供米10石を寄進した。
後光明天皇から御紋章幕、提灯の御下賜
青蓮院宮から御紋章提灯の下賜
その他に歴代の藩主や武将、庶民の崇敬が篤く、各種の奉納・奉祀がなされて来たようです。
歴史に詳しくはありませんが、大河ドラマ「麒麟が行く」を見ていたのでわかりました。
欄間飾りの龍は、敦賀城内にあったものと言われています。
敦賀市街地にあります。
創建は、第15代応神天皇が気比神宮に参拝に訪れた際、当地を行宮としたことから、住民が盛土を築き、聖地としたことによる。
宝物:神輿酒井忠勝寄進、弓矢・太刀織田信長寄進、竜形彫刻・敦賀城主大谷吉隆寄進となっており、武将達が参拝したとされています。
なかなか歴史を感じるたたずまいでした(゚ω゚)
一の鳥居
鳥居をくぐると丑がいます(´ー`)
神馬像
拝殿
大谷吉継公肖像画が飾ってあります
本殿です。龍形彫刻が見えます(´ー`)
御朱印です。
祈祷の方がいらしたので、終わるのを待ってから、頂けました。
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