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宝寿寺ではいただけません
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ほうじゅじ|真言宗単立天養山(てんようざん)

宝寿寺
愛媛県 伊予小松駅

御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
-
パーキング
駐車場
あり

大型車2台(無料)

巡礼

その他の巡礼の情報

四国八十八箇所62番
四国(東予)七福神・布袋尊

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くるくるきよせん
くるくるきよせん
2024年09月03日(火)
1981投稿

3回目の1泊2日四国八十八か所巡り 1日目の3寺院目です。
三角寺から松山道を使って1時間ほどかかりました。
町中のお寺です。お寺の目の前に駐車場がありましたので歩いてすぐ境内でした。
山門はなく 道からすぐ境内です。
境内には 建物としては大師堂と本堂と納経所がありました。
大師堂は内陣が見れましたが 本堂は無理でした。
風鈴の奉納とこいのぼりの奉納がありました。
季節外れですが こいのぼりもいいものですね。
境内の外れには 鐘楼があったと思われる場所がありました。
玉のかわらけ?があり 厄捨て場に投げつけて割ることで 厄払いができました。

山号は天養山 院号は観音院 宗旨宗派は高野山真言宗→ 単立→ 真言宗善通寺派 寺格は一之宮神社(小松町新屋敷)の別当寺 ご本尊は十一面観世音菩薩 創建年は(伝)天平年間(729年 – 748年) 開基は(伝)道慈律師、聖武天皇(勅願)です。

ご真言とご詠歌は
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ
でした

由緒については
聖武天皇の勅願によって天平年間(729年 – 748年)大国主大神の信託により大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1km北)に奉斎したという。
その際 道慈によって その法楽所として傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。
大同年間(806年 – 810年)空海が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし 寺名を宝寿寺に改めた。
またこの頃国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み 空海は境内の玉ノ井(現存しない)の水を加持し越智夫人に与えたところ 夫人は玉のような男子を無事出産したことから 喜びの余り2首の歌を詠じて献納した。
とありました。

宝寿寺(愛媛県)

山門はありませんでした

宝寿寺(愛媛県)

石柱

宝寿寺(愛媛県)

手水舎

宝寿寺(愛媛県)

大師堂

宝寿寺(愛媛県)

内陣

宝寿寺(愛媛県)

香炉の天井には風鈴の奉納

宝寿寺(愛媛県)

本堂

宝寿寺(愛媛県)

納経所

宝寿寺(愛媛県)

石碑

宝寿寺(愛媛県)
宝寿寺(愛媛県)

厄捨て場

宝寿寺(愛媛県)

境内社 一宮稲荷社

宝寿寺(愛媛県)

こいのぼり奉納

宝寿寺(愛媛県)

鐘楼跡

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宝寿寺の基本情報

住所愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
行き方

伊予小松駅 下車 (0.2km)
61【香園寺】より
(自家用車)約6分 約1.5km
(徒歩)約20分 約1.5km
63【吉祥寺】より
(自家用車)約6分 約1.4km
(徒歩)約20分 約1.4km

アクセスを詳しく見る
名称宝寿寺
読み方ほうじゅじ
通称保夀寺(保寿寺)  金剛寶寺  宝夀寺  一國一宮別當寶夀寺
参拝時間

7:00~17:00

トイレ仁王門の横
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号0898-72-2210
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

巡礼の詳細情報

四国八十八ヶ所霊場(お遍路)

詳細情報

ご本尊十一面観世音菩薩
山号天養山(てんようざん)
院号観音院(かんおんいん)
宗旨・宗派真言宗単立
創建時代天平年間(729〜49)
開山・開基聖武天皇
文化財

孔雀文磬(けい)1面(県指定有形文化財)

ご由緒

往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?~744)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。
また、この頃国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんでいたので大師に祈念を頼み、大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男子を無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅したが、寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなったが、その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。
さらに明治初頭の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。

体験御朱印重要文化財札所・七福神巡り
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