御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
ネコ大バナー※意富比神社ではいただけません

おおひじんじゃ

意富比神社

千葉県 大神宮下駅

社務所:9:00~16:00 
電話受付 : 9:00~17:00

投稿する
047-424-2333

※お問い合わせの際は「ホトカミを見た」と
お伝えいただければ幸いです。

御朱印について
御朱印
あり

右に下総國船橋郷と書かれ、真ん中に延喜式内意富比田井神宮下総船橋の印が入った御朱印です。
御朱印帳の表面には景観重要建造物である灯明台が、裏面には広重(二代)が描いた意富比神社の浮世絵がデザインされています。

限定
-
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
-

おすすめの投稿

惣一郎
2021年08月22日(日)
957投稿

意富比神社(おおひ~)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称「船橋大神宮」。祭神は天照大御神。

社伝によると、景行天皇40年、日本武尊の東征の折に、当地で東国平定の成就を祈願したことに始まる。当時、当地住民が日照りに苦しんでいたところ、日本武尊があわせて祈雨を念じると、雨が降り出したとも伝わる。当社には元々「意富比神(大日神)」が祀られ、周辺(現東京湾)の漁民に信仰されていた。国史の初見は『日本三代実録』で、863年に神階昇叙の記載がある。平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「下総国 葛飾郡 意富比神社 小」に比定されている。のちに周辺にあった神明社の天照大御神を当社に合祀したが、天照大御神への信仰の方が強くなり、次第に「意富比神社」の名称は忘れられ、戦国時代にはすでに「船橋明神」、「船橋大神宮」と呼ばれるようになっていたとのこと。中世には平将門、源頼朝、徳川家康などが社領の寄進や社殿の造営・改修を行った。なお、明治維新時の戊辰戦争に絡む船橋の戦いで社殿と古文書を焼失した。近代社格制度の下、県社に列したほか、明治天皇、大正天皇、昭和天皇などの歴代天皇も参拝に訪れている。

当社は、京成本線・大神宮下駅の北方200mの市街地にある。平地からなだらかに盛り上がった場所にあって、境内はかなり広々としている。社殿も大きいが、それに準ずるサイズの摂社・常盤神社(祭神は日本武尊、徳川家康公、徳川秀忠公)が東隣に鎮座している。

今回は、下総国の式内社、千葉県の旧県社ということで参拝することに。参拝時は週末の午後で、特別な日ではないが、境内にはぱらぱらと参拝者が訪れていた。

意富比神社の鳥居

境内南端の<一の鳥居>。境内は広いが、南端入口の横幅は道に挟まれ広くはない。境内が南に尖っているイメージ。

意富比神社の建物その他

鳥居後ろで見えにくい<社号標>。ずいぶんと年季が入っている。

意富比神社(千葉県)

真北に向かってまっすぐ伸びる参道。両側の木々が木陰を作っていて、歩いて心地が良い。

意富比神社の建物その他

参道右側に立つ<日露戦役記念碑>と<征清紀念碑>。

意富比神社の鳥居

参道の途中にある<二の鳥居>。

意富比神社の建物その他

やがて<神門>が見えてくる。

意富比神社の手水

参道右側にある<手水舎>。大きな神明造の屋根が立派。

意富比神社(千葉県)

参道突き当りが<神門>。神門奥の<社殿>は、1868年の戊辰戦争で焼失、その後1873年に本殿、1889年に拝殿を再建。

意富比神社の山門

神門から<拝殿>を望む。参拝者はちらほらいたが、誰も神門の中に入らないので、入って良いかどうかは不明。結果、神門の中には入らず。

意富比神社(千葉県)

神門から左斜め後ろを向くと、<社務所>と<授与所>。御朱印はこちら。

意富比神社の建物その他

社殿の左側に進むと、参道の左右に境内社群が現れる。

意富比神社の末社

まず参道左側(西側)から。左から順に<水天宮>、<稲荷神社>、<秋葉神社・古峯神社>。

意富比神社の末社

その右側に<八坂神社(船橋本町)・神輿奉安殿>と<八剱神社(船橋湊町)・神輿奉安殿>。近隣の神社の神輿自体が神社になっている。

意富比神社(千葉県)

その右側に<金刀比羅神社>。

意富比神社の末社

その右側、左から順に<八幡神社>、<竈神社>、<龍神社>、<道祖神社>、<客人神社・多賀神社>。

意富比神社の末社

参道の突き当り(境内北側)にある<船玉神社>。社殿下方に船の舳先がデザインされている。

意富比神社の末社

社殿側(参道西側)に、<猿田彦神社>石碑(左)と<?神社>(墨字がほぼ消えてしまっている)。

意富比神社の末社

その右側に<厳島神社・根神社>、<祈年穀神社・長岩姫神社>、<阿夫利神社・大山祇神社>、<事代主神社・大國主神社>、<水神神社・産霊神社>。

意富比神社の鳥居

社殿右側に移動すると、<常盤神社>の門がある。他の境内社とは別格のようで、神域は本社と同じぐらいのサイズがある。日本武尊、徳川家康公、徳川秀忠公を祀る。

意富比神社の末社

<常盤神社>の鳥居。

意富比神社(千葉県)

<常盤神社>の社号標(右)、唐門(中央)とその両側に伸びる透塀。

意富比神社(千葉県)

<常盤神社>の唐門全景。絢爛豪華な極彩色。

意富比神社の本殿

唐門から、<常盤神社>社殿を望む。

意富比神社の建物その他

<常盤神社>の境内。塀の向こう側は<意富比神社>の社殿。

意富比神社の末社

常盤神社の門の右側にある<大鳥神社>。

意富比神社の建物その他

大鳥神社の後ろに回ると、かつて明治期までは東京湾からの目印になっていた常夜灯<灯明台(とうみょうだい)>が高い位置に見える。1868年の戊辰戦争で社殿とともに焼失、1880年再建。標高27mの丘の上にある和洋折衷の疑洋風建築。

意富比神社の末社

境内東側にある<豊受姫神社(外宮)>の鳥居と社号標。

意富比神社の末社

<外宮>の社殿。豊受姫大神を祀る。

意富比神社の末社

外宮の右隣にある<八雲神社>の鳥居。

意富比神社の末社

<八雲神社>の社殿。主祭神は須佐之男命、大己貴神と奇稲田姫命を配祀。

意富比神社の建物その他

外宮、八雲神社の南側にある<神楽殿>。

意富比神社の建物その他

駐車場の南側にある<土俵>。徳川家康公が船橋宿泊時に漁師の子供の相撲を供覧したのが始まりとのこと。

意富比神社の自然

土俵近くに立っていた<古老木>。

意富比神社(千葉県)

二輪駐車場の周りには、のびのび育った松の木たち。かつての浜辺の雰囲気を醸し出している。

もっと読む
Kumiko
2021年07月26日(月)
291投稿

神社巡りをはじめてから2回目の訪問です。
船橋地方最大最古の古社
創建~約1900年との事です。
以下 意富比神社のリーフレットより抜粋
現在の御祀神は天照皇大神
平安中期の『日本三代実録』貞観5年(863)の記事で、「下総国意富比神」とあります。これは、船橋市域に関する文献として最古のものです。また平安中期の格式ある神社を記した『延喜式』(えんぎしき)の「神名帳」(じんみょうちょう)にも、下総国11社の中に「意富比神社」として載せられ、東国では数少ない「式内社」(しきないしゃ)でありました。

伊勢神宮との関係
前記のように、当社は中世以降一般には船橋神明と呼ばれることが多かったようです。神明とは伊勢神宮を分祀した神社のことです。
 すると、古代には当地方最有力の太陽神であった意富比神が、中世のある時期に伊勢神宮に同化したと想定されますが、そのあらすじは次のように想定されます。 —平安末期に近い保延4年(1138)に夏見を中心とする一帯が、伊勢神宮の荘園「夏見御厨(みくりや)」となった。実際には当地から伊勢神宮へ白布を貢納した。そうした関係から、当地には伊勢神宮が分祀され「神明社」ができたが、その御祭神は言うまでもなく、最高の太陽神である天照皇大御神であった。やがて地元の偉大な太陽神は、同じ太陽神である神明社に同化して船橋神明となり船橋大神宮と呼ばれるようになった。

という事で、御祀神変更以前の
古来より太陽神を祀っていたそうです。

意富比神社の建物その他

船橋駅から近い鳥居

意富比神社の鳥居

こんなところにも鳥居

意富比神社の鳥居

こちらが正門

意富比神社の建物その他

長い参道

意富比神社の狛犬意富比神社の狛犬

船橋大神宮と呼ばれてますが
正式名称は意富比神社
江戸時代の絵には
意富日と書かれていた。

意富比神社の本殿意富比神社の鳥居

徳川家康公を祀る常盤神社

意富比神社(千葉県)

日光東照宮迄行かなくても
行ったのと同じ参拝になると云われている

意富比神社の建物その他意富比神社の本殿

常盤神社からみた意富比神社メイン本殿

意富比神社の末社

大鳥神社

意富比神社(千葉県)

灯明台6角形三層12M
昔々海が直ぐ近く迄の立地だったそう。

意富比神社(千葉県)

岩長姫や

意富比神社(千葉県)

客人…アラハバキでしょうね。
摂社、末社が沢山 他に伊勢神宮外宮や八雲、八坂等…

平将門公も意富比神社を崇敬していた
ようです。
船橋は結構将門公伝説が残る地です。

もっと読む
投稿をもっと見る(65件)

歴史

古代
 景行天皇四十年(110年)、皇子日本武尊が東国御平定の途次、海上の一艘の舟の中に神鏡を発見。その頃旱天に苦しんでいた住民を救う為、又東国御平定の成就を祈願する為その神鏡をお祀りされたところ、ご神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
同じく五十三年、天皇御自身が御東行された折、武尊のご功績をご追憾なされ「意富比神社」の称号を賜りました。この名称が現在でも当宮の正式な名称となっております。
 はじめに日本武尊が神鏡を奉斎された場所は現在の神社より西に位置する湊郷海神あたりでした。後に現在の地に遷座されたと伝えられています。
平安
 史書の中で初見されるのは「日本三代実録」であります。それによると貞観五年(863)下総国従五位下意富比神に正五位下を授く」とあり、その後昇叙され「同十六年三月十四日に従四位下に昇せた」との記録が見られます。県内でも四位の社格を授かった社は数少なかったということですが、延長五年(927)に編纂が完成した「延喜式」の神名帳にも「意富比神社」と記され、その式内社としての歴史を知ることができます。
 天喜年間(1053〜58)には源頼義、義家親子が社殿を修造、その後仁平年間(1151〜54)には船橋六郷の地にご寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じ当宮の再建に携わりました。その文書には「船橋伊勢大神宮」と記載があり、当時から朝廷や武家からの崇敬が篤かったことが窺えます。
鎌倉
 日蓮上人が宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
江戸
 江戸開府の頃より徳川家康公の崇敬が篤く、度々参詣され、当宮に社領を寄進、本殿、末社等を造営し、以来江戸時代を通して代々の将軍家より、五十石収穫相当の社領の寄進が幕末まで続きました。
明治
 慶応四年(1868)から勃発した戊辰戦争下では、旧幕府軍の拠点の一つとなり激戦の中、本殿・拝殿・摂末社にいたるまで全焼。その後明治六年(1873)に本殿が造営されたのに始まり明治二十一年頃までに本殿拝殿が竣工。
 明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料をご奉奠あそばされました。
 それ以降は、大正十二年、昭和三十八年、同五十年、六十年に摂末社、鳥居、玉垣、参道に至るまで随時造営が成され、平成二十二年にはご鎮座1900年をむかえ、その記念事業として玉垣改修や境内整備、また神社所蔵の社宝展の開催などを行いました。
近代
 現在の主境内地の面積は約四千七百坪(約一万五千五百平方メードル)になります。

歴史をもっと見る|
7

意富比神社の基本情報

住所千葉県船橋市宮本5-2-1
行き方

・京成本線大神宮下駅 徒歩3分
・総武線船橋駅南口 徒歩15分

アクセスを詳しく見る
名称意富比神社
読み方おおひじんじゃ
通称船橋大神宮
参拝時間

社務所:9:00~16:00 
電話受付 : 9:00~17:00

トイレ土俵のそば
御朱印あり

右に下総國船橋郷と書かれ、真ん中に延喜式内意富比田井神宮下総船橋の印が入った御朱印です。
御朱印帳の表面には景観重要建造物である灯明台が、裏面には広重(二代)が描いた意富比神社の浮世絵がデザインされています。

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号047-424-2333
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.oohijinja.jp/

詳細情報

ご祭神《主》天照坐皇大御神,《配》万幡豊秋津姫命,天手力雄命
創建時代景行天皇四十年(110)
ご由緒

古代
 景行天皇四十年(110年)、皇子日本武尊が東国御平定の途次、海上の一艘の舟の中に神鏡を発見。その頃旱天に苦しんでいた住民を救う為、又東国御平定の成就を祈願する為その神鏡をお祀りされたところ、ご神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
同じく五十三年、天皇御自身が御東行された折、武尊のご功績をご追憾なされ「意富比神社」の称号を賜りました。この名称が現在でも当宮の正式な名称となっております。
 はじめに日本武尊が神鏡を奉斎された場所は現在の神社より西に位置する湊郷海神あたりでした。後に現在の地に遷座されたと伝えられています。
平安
 史書の中で初見されるのは「日本三代実録」であります。それによると貞観五年(863)下総国従五位下意富比神に正五位下を授く」とあり、その後昇叙され「同十六年三月十四日に従四位下に昇せた」との記録が見られます。県内でも四位の社格を授かった社は数少なかったということですが、延長五年(927)に編纂が完成した「延喜式」の神名帳にも「意富比神社」と記され、その式内社としての歴史を知ることができます。
 天喜年間(1053〜58)には源頼義、義家親子が社殿を修造、その後仁平年間(1151〜54)には船橋六郷の地にご寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じ当宮の再建に携わりました。その文書には「船橋伊勢大神宮」と記載があり、当時から朝廷や武家からの崇敬が篤かったことが窺えます。
鎌倉
 日蓮上人が宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
江戸
 江戸開府の頃より徳川家康公の崇敬が篤く、度々参詣され、当宮に社領を寄進、本殿、末社等を造営し、以来江戸時代を通して代々の将軍家より、五十石収穫相当の社領の寄進が幕末まで続きました。
明治
 慶応四年(1868)から勃発した戊辰戦争下では、旧幕府軍の拠点の一つとなり激戦の中、本殿・拝殿・摂末社にいたるまで全焼。その後明治六年(1873)に本殿が造営されたのに始まり明治二十一年頃までに本殿拝殿が竣工。
 明治天皇陛下には習志野、三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料をご奉奠あそばされました。
 それ以降は、大正十二年、昭和三十八年、同五十年、六十年に摂末社、鳥居、玉垣、参道に至るまで随時造営が成され、平成二十二年にはご鎮座1900年をむかえ、その記念事業として玉垣改修や境内整備、また神社所蔵の社宝展の開催などを行いました。
近代
 現在の主境内地の面積は約四千七百坪(約一万五千五百平方メードル)になります。

体験七五三

Wikipediaからの引用

概要
意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称は船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する。
歴史
歴史[編集] 社伝では、景行天皇40年、日本武尊の東征の折に当地で東国平定の成就を祈願したのに始まると伝える。当時、当地の住民は日照りに苦しんでおり、日本武尊があわせて祈雨を念じると、雨が降り出したとも伝える。元々同社では地方の太陽神である「意富比神(大日神)」が祀られ、特に周辺(東京湾)の漁民の信仰を集めていた。国史の初見は『日本三代実録』の貞観5年(863年)5月26日条で、延喜式神名帳では小社に列している。 後にこの一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の...Wikipediaで続きを読む
アクセス
交通[編集] 最寄り駅 京成電鉄本線大神宮下駅下車で徒歩5分 JR総武線船橋駅下車で徒歩約10分
行事
行事[編集] 船橋大神宮の奉納相撲(10月20日)[編集] 秋の例祭として行われる奉納相撲の歴史は古く、1590年(天正18年)に行われた徳川家康の上覧相撲に起源を持つ。当時、家康は下総で時々鷹狩りを催し、宿舎として船橋に離館が設けられていた。(現在の船橋市本町4丁目に船橋御殿があり、「御殿地」と呼ばれていた。跡地は船橋東照宮である)ある日、家康が相撲に戯れていた子供の姿を見てこれを賞し、信仰深かった船橋大神宮に奉納したものが起源と言われ、その後幕府自ら勧進元となった、由緒ある素人相撲である。 神宮の素人相撲は、強者が集まることで知られ、今でも東葛出身力士の育成に貢献している。また、少し...Wikipediaで続きを読む
引用元情報意富比神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%84%8F%E5%AF%8C%E6%AF%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=85700324

この神社の神主様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の神社の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy and Terms of Service apply.

行きたい
投稿する
お問い合わせ
四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印小バナー2022年10月