下總三山の七年祭大祭
由 来
室町時代、馬加(千葉市幕張)の城主であった陸奥守康胤<むつのかみやすたね>
(千葉康胤)の奥方は懐妊して11ヶ月になっても出産の気配がありませんでした。
そこでいたく心配した康胤は二宮神社(三山村)・子安神社(畑村)・子守神社(馬加村)・三代王神社(武石村)の神主に命じて、馬加村の磯辺に地を相会して安産祈願の祭礼である産屋の古式を執行しました。
これを【磯出祭】といいます。
すると、まもなく奥方は男子を安産しました。
康胤初め家臣・領民はことのほか喜んで、この御神徳に報いるために、総社である二宮神社に安産御礼の大祭を執行することを領内の村々に告げ知らせて、康胤は若殿を伴い、家臣一同を引き連れていとも麗やかに大祭を行いました。
これを【安産御礼大祭】といいます。
後年、この二つの祭(安産御礼大祭と磯出祭)を一つに合わせて
同時に式事を執行するようになりました。
現在のように七年毎の丑年と未年に行われるようになったのは、享保12年(1727年)であると
伝えられています。 |