ひろさきはちまんぐう
弘前八幡宮
青森県 撫牛子駅
青森県弘前市に鎮座する弘前八幡宮に以前参拝させて頂きました、どの様なご祭神か解らないで参拝しましたので、引用を用いて調べて見ました、平安時代の初期に、坂上田村麻呂が東夷東征の際、岩木村に宇佐八幡宮のご分霊を勧請し、戦勝祈願をしたのが始まりと伝えられる。その後、大浦光信が津軽進出の拠点として、種里城から大浦城に居城を移すと当社が城の鬼門に位置していたことから、鬼門鎮守の総鎮守として崇敬されるようになった。天正18(1590年)には、一度、社殿が焼失してしまうが、初代藩主となる大浦為信(津軽為信)が、社殿を再建した。更には、居城となる弘前城も同様に当社が鬼門の位置にあったことから、弘前の総鎮守となった、ご祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、比売女神(ひめのかみ)です、歴史的建造物、仏閣、神社巡り、パワースポット、散策、参拝、絶景、景色撮影、八幡宮祈願、癒し処、青森県弘前市観光、御朱印集め等好きな方訪れて見て下さい。
【陸奥國 古社巡り】
弘前八幡宮(ひろさき・はちまんぐう)は、青森県弘前市八幡町にある神社。旧社格は県社。祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命。本殿、唐門は国指定の重要文化財。
創建は1612年、弘前藩2代藩主・津軽信牧の治世に、津軽家の元城・大浦城の鎮守であった大浦郷八幡の八幡宮を弘前城の鬼門である現在地に遷したことに始まる。以後、弘前藩の厚い庇護のもと、最勝院を別当寺として、津軽総鎮守、弘前総鎮守、弘前城鬼門守護として隆盛した。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR奥羽本線・撫牛子駅の南西2.1km、弘前城址の北東の市街地、平地にある。境内は旧県社としてはやや小さめか。南側に境内社や社務所が集まり、拝殿から北側は塀で仕切られていて、国重文の本殿、唐門を見に行くには、社務所の人の許諾を取るルールになっている。もう一つ特徴としては、境内の南方300mの公道上に大きな一之鳥居があるが、その道は当社に突き当たることから、かつては相当隆盛を誇ったものと思われる。
今回は、青森県の旧県社、本殿、唐門が国重文であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、自分以外にも家族連れなど参拝者が数組訪れていた。
※この日、初めて津軽國(青森県)の神社を参拝したため、津軽國神社専用の御朱印帳を探したが、一之宮の岩木山神社や青森県護国神社にはオリジナル御朱印帳がなかったため、当社にて御朱印帳を購入した。
境内の南方300mの公道上に立つ<一の鳥居>。
境内南端入口の<二の鳥居>。
二の鳥居前左側の<狛犬>。かなり新しいタイプ。
二の鳥居前右側の<狛犬>。「マスク着用」のメッセージ付きマスク薬用。
参道の右手にある<手水舎>。この左側に<社務所>がある。御朱印はそちら。
<手水盤>はこんな感じ。青系のお花が綺麗~♪
参道左側の石碑類、小祠群。中央の小祠は<法喜稲荷神社>。
参道左側の<高山開運稲荷神社>。
<拝殿>全景。まだ新しいようで、朱色の塗装がパリッとしている。
<拝殿>正面。奥の上部には「八幡宮」の扁額。
拝殿に向かって左手にある建物。神輿殿と神馬舎が併設されている。扁額には「戌亥殿」とある。
説明書きには、神馬は昭和4年(1929年)の奉納とある。
戌亥殿の右手にある<天満宮>。
天満宮の右隣にある、社殿拝観用の門。社務所に声かけすれば拝観可能との張り紙。
拝殿後ろの<唐門>と<本殿>。ともに江戸時代初期1612年の建立。
唐門前左側の<狛犬>。
唐門前右側の<狛犬>。かなり古そうで、かなり個性的な外観。
本殿前に建つ<唐門>。四脚門、入母屋造、前後軒唐破風付、こけら葺。
唐門の後ろの<本殿>。三間社流造、銅板葺。威風堂々たる構え。
最後に<拝殿>全景。新しい鮮やかな色合いの拝殿と、歴史が香る国重文の唐門・本殿との組み合わせが印象的。(^▽^)/
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