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【陸奥国式内百座】
所在地: 宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前97
主祭神:武甕槌神
稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)左
猿田彦命(鹿島緒名太神社)を
社 格:
創 建:111年(景行41年)
由 緒:
景行41年(111)辛亥8月6日、神宮寺村の三門山頂に、日本武尊の創祀と伝えられます。創祀は、武甕槌神だけであったが、稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に、猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称した。神領地は、神宮寺村と鹿島村に2500束あったが、天正の乱で喪失したといわれる。延暦元年(782)壬戌5月朔日、鹿島神を祈りて凶賊を討伐するに神験顕著なるもの有り、望むらくは位封を賽せんと勅して、勲五等封二戸を授けた。(続日本紀・社蔵文書)。これより、封戸65戸に加えて67戸となった。貞観4年(862)壬午6月15日、官社に列し鹿島宮と称した。同月18日従四位上に陞叙した。貞観8年(866)正月20日、常陸国鹿島大神の宮司、延暦以来封物を割いて奉幣していたが、弘仁後一時絶えた。嘉祥元年になり再び奉幣しようとしたが、聴許されなかったために、神の祟り止まなかったと言われる。延長5年(927)延喜式の神名帳に載っている、亘理郡四座のうちの1つの式内社です。天慶4年(941)に、北鹿島の樫木山に遷祀され、さらに貞享3年(1686)丙寅年4月6日、亘理舘主5代伊達実氏公北鹿島に鹿島御殿を建てることになり、現在地に遷し鹿嶋大明神と称した。舘主伊達氏累代の崇敬篤く、寛政2年(1790)庚戌3月24日、舘主10代伊達村氏公が、南面であった社殿を、鳥の海を向く東面に建て替えた。祭事には、家来を遣わし祭の興隆に努めました。明治5年(1872)郷社に列せられた。明治41年に鹿島村の八幡社、高屋村の高屋神社、八幡神社の三社、明治42年に神宮寺村の春日神社、八雲神社の二社を合祀した。明治41年(1908)現在のような社殿改築に当たり、今まで拝殿にしていた建物を切り離して、南向きに向きを変え神輿殿にしている。明治44年(1911)神饌幣帛料供進社に指定され、祈年祭や例祭に逢隈村長が幣帛を奉った。明治時代までは、4月8日春の例祭典・御神幸祭には、鹿島吹田の下木戸になる御腰掛場で、田沢の安福河伯神社の御神輿と合流して、二基の御神輿が亘理の町並みを南に進み、山下の八手庭から東方太平洋の吉田浜海岸まで浜降りなされて、高屋の神休場で休んでから二基の神輿が、鹿島吹田の下木戸まで西進し、お腰掛場で盛大に分列式を挙げた後、それぞれの鎮座地である西の鹿島社と北の安福河伯神社にお還りになったと伝えられている。平成11年11月、拝殿の前に小舞を付け現在の社殿になった。
(宮城県神社庁より)
#陸奥国式内百座

















2回目
景行41年(111)8月6日三門山頂に日本武尊の勧請と伝えられる
❊御祭神:武甕槌神様、稜威雄走神様、猿田彦神様(鹿島の八幡神社、倉延嶺神社)を合祀(明治41年) ❊御朱印は駐車場より右奥側にある社務所にて頂けます❊

鹿島天足和氣神社 駐車場からの(鳥居と鹿島天足和氣神社)の社号標です

鹿島天足和氣神社 駐車場にある(延喜式内社:鹿島天足和氣神社)の社塔の様子です

鹿島天足和氣神社 鳥居左側にある(鹿島天足和氣神社:御祭神、例祭日、由緒)が書かれてます

鹿島天足和氣神社 参道の様子です

鹿島天足和氣神社 境内に鎮座する(阿形の狛犬さん)の様子です

鹿島天足和氣神社 境内に鎮座する(吽形の狛犬さん)の様子です

鹿島天足和氣神社 参道を上がると右側にある(手水舎)の様子です

鹿島天足和氣神社 境内に沢山の石祠の群れの様子です

鹿島天足和氣神社 境内の様子です

鹿島天足和氣神社 境内にある(神輿殿(推定)の様子です

鹿島天足和氣神社 境内にある石祠、碑の様子です

鹿島天足和氣神社 拝殿前右側からの様子です

鹿島天足和氣神社 拝殿前左側からの様子です

鹿島天足和氣神社 拝殿前の様子です

鹿島天足和氣神社 境内右奥側からの本殿の様子です

鹿島天足和氣神社 境内左奥側からの本殿の様子です
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