いきすじんじゃ
息栖神社茨城県 延方駅
9:00~15:30
息栖神社⛩️へおまいりしました(。・人・`。)
東国三社御守り🧿をいただきました♪
静かな落ち着いた雰囲気がよかったです
御朱印書入れていただきました♪
東国三社御守り🧿のシール拝受しました♪
菊の花が飾られていて綺麗でした🌼
境内社の稲荷神社⛩️
12/25は今年最後の一粒万倍日🌈
しかも月徳日と天恩日が重なったラッキーデイ⭕️
つーことで今年の神社参拝納めは東国三社巡り。
今年も無事に神仏巡りが出来ましたので感謝を込めて
ニ社目は鳥栖神社⛩
御祭神は久那斗大神(くなどのおおかみ)☀️
第十五代応神天皇により創建とされております。
境内に入る前に相向かい側の一ノ鳥居に向かうと
井戸が2つ奉っており、日本三霊泉の一つ
となっております。右側が男瓶、左側が女瓶。
御神水が絶え間なく湧き出しており💧
現在ではパワースポットとして多くの方々が
訪れております。
来年の鳥栖神社の大麻をお受けし、当家神棚へIN😊
東国三社を毎日奉りたく存じます🈵
天気は最高の参拝日和☀️☀️☀️
神様のお導きに感謝ですね🌈
一ノ鳥居
男瓶
女瓶
茨城県神栖市息栖に鎮座する息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つに数えられる息栖神社 に2024.1に参拝致しました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、主祭神は久那戸神(岐神)社格等は国史見在社、旧県社、創建は(伝)第15代応神天皇年間、本殿の様式は入母屋造、例祭は4月13日、社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという、その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える、
当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[4]。この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている、祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され、鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある、国史では、『日本三代実録』において仁和元年(885年)に「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされるが、『延喜式神名帳』には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる。
当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘される、また当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという。
江戸時代には徳川家の崇敬が篤く、慶長9年(1604年)に鹿島神宮領から14石が給された、またこの時代には、「下三宮参り」と称して関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという、参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという。
明治維新直後の明治元年(1868年)と明治4年(1871年)には当社に勅使が派遣された。明治10年(1877年)、独立した神社として近代社格制度において県社に列した、
2024.1参拝、茨城県神栖市、息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つ、西陣織御朱印帳です。
2024.1参拝、茨城県神栖市、息栖神社(いきすじんじゃ)東国三社 の一つ、御朱印です。
◆御由緒
久那戸大神は古く国史にも見え、鹿島、香取の神々と共に東国三社の一つと称され、上下の信仰の厚い神社であります。
久那戸神「岐神」は、路の神であり除厄招福の神であり、井戸の神でもあります。天鳥船神は交通守護に、住吉三神は海上守護の神として御神徳が顕著で、神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものであります。
◆創祀沿革
息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられるものの祭神の御神格からして神代時代に鹿島・香取、両神社の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取の両神宮はもともと大地に御鎮座するものの久那斗及び天鳥船神は海辺の港(日川)に姿を留めてやがて応神明に神社として祀られたと思われます。日川に御鎮座当時の御社名に付いては記録がありません。【出雲の大神様より鹿島香取の大神様の道案内を命ぜられた久那斗神は現在出雲大社の近くに出雲大社の摂社・出雲井神社(路神社)として祀られております】
国史(三代実録)書かれてある「於岐都説神社」が現在の息栖神社です。常陸風土記によれば香島神郡が出来たのは大化五年(今からおよそ約千三百年前)であり、和尚年間の鹿島地方は鹿島丘陵の南は今の鹿嶋市国末で終わり、その後沖州であったものがようやく陸続きとなりいくつかの集落ができて一段と低く南へ伸びていったことがわかる。息栖神社はこのような沖州に鎮座され大同二年四月十三日(807)平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂によって現在地に遷されたと伝えられている。
三代実録にも、光孝天皇の御代(仁和元年・1120)の記に『正六位於岐都説神従五位下を授く』とあり、於岐都説は於岐都州であり沖州であり、息栖になったものであります。(別説あり)。上下の崇高篤く、弘安の元冠には勅使を報じて国家安泰を祈願し、明治元年には勅使として、(神̪祇判官事正四位右近衛少将源朝臣植松雅言)が参向奉幣され、大正三年日独の国交断絶の際も宣戦報告の供進使が参向される等、又、下三宮(三社詣り)水郷の景を称しながら青葦・真菰の茂る息栖の河岸より一の鳥居をくぐって社前に額ずき、大神の御思頼をいただき、さらに香取・鹿島へ詣でる人達、今では車での三社詣での人達が絶えません。
名称 | 息栖神社 |
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読み方 | いきすじんじゃ |
参拝時間 | 9:00~15:30 |
参拝にかかる時間 | 15分 |
参拝料 | なし |
御朱印 | あり 右に東国三社と書かれ、真ん中に息栖神社の印、その下には三笠宮崇仁親王から下賜されたという水晶製の印が押されています。
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限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
ホームページ | http://ikisujinja.com/ |
おみくじ | あり |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
ご祭神 | 《主》久那戸神,《配》天乃鳥船命,住吉三神 |
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創建時代 | 270年頃(応神天皇元年) |
本殿 | 入母屋造 |
ご由緒 | ◆御由緒
久那戸大神は古く国史にも見え、鹿島、香取の神々と共に東国三社の一つと称され、上下の信仰の厚い神社であります。
◆創祀沿革
息栖神社の創祀は応神天皇の御代と伝えられるものの祭神の御神格からして神代時代に鹿島・香取、両神社の御祭神に従って東国に至り、鹿島・香取の両神宮はもともと大地に御鎮座するものの久那斗及び天鳥船神は海辺の港(日川)に姿を留めてやがて応神明に神社として祀られたと思われます。日川に御鎮座当時の御社名に付いては記録がありません。【出雲の大神様より鹿島香取の大神様の道案内を命ぜられた久那斗神は現在出雲大社の近くに出雲大社の摂社・出雲井神社(路神社)として祀られております】
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体験 | 御朱印伝説 |
概要 | 息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。 茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。 |
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歴史 | 歴史[編集] 創建[編集] 社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという[1]。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える[1]。 当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた[2]。この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている[3]。祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも水上交通の神であることが示唆され[3]、鹿島・香...Wikipediaで続きを読む |
行事 | 祭事[編集] 元旦祭 (1月1日)[1] 白馬祭 (1月7日) 節分祭 (2月節分) 祈年祭 (3月6日) 例大祭 (4月13日) 境内社祭 (5月3日) 大祓(みそぎ祭) (6月30日) 風祭 (8月27日) 秋祭 (11月23日) 献穀祭 (12月3日) 大祓 (12月31日) ^ 祭事は神社由緒書による。 |
引用元情報 | 「息栖神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%81%AF%E6%A0%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=101557199 |
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