こうふくじ|浄土宗
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甲斐百八霊場 第2番
甲斐国三十三観音霊場 第21番《上の堂》
同 第22番《下の堂》 3つの札所になっています。
『足引きの山の岩戸につくりかけ
まことの観音浄土なるらん』21番
足引きの、は山に掛かる枕詞で、足を引いてあえぎつつ登る意で、まさに上の堂へ登るには階段を登ってお参りするしか有りません。
観音浄土とは、このお寺が浄土宗というのも関係しているのでしょうか。
『あかつきの雲もよこねの観世音
心を渡す前のふな山』 22番
よこね、とはこの地の横根町を指していますね。
山の名前がふな山なのでしょうか、横と前、渡す船という意味を含んでいる気がします。
甲斐百八霊場めぐりをするにあたり、知足さんのブログを非常に参考にさせていただいています。
甲斐百八霊場で検索書けると直ぐ出てくるブログです。
ここではこのお寺、上のお堂にいくのにすごい難儀されていますが、現在は階段もきれいに整備されています。
平成19年の頃から結構変わっていて、その辺も面白い点です。
物腰が上品な奥さまから御朱印拝受しました。
そちらは当時と全く変わっていませんでした。
甲斐百八霊場 第2番
甲斐国三十三観音霊場 第21番
甲斐国三十三観音霊場 第22番
歴史
岩泉山光福寺は、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光が「後三年の役」のとき奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として真言宗の岩泉山寂静院を創立したのがはじまりである。
南北朝期の応安5年(1372)に山崩れがあり、堂宇は悉く破壊され、荒廃していたものを天文16年(1547)に武田晴信(信玄)が権少僧都円全を中興開山として再興した。
その後、慶長10年(1605)3月鎌倉から萬誉助往和尚を迎えて翌11年2月知恩院直末に編入、寺号を光福寺として浄土宗に改宗、第一世となる。
その後、たびたび火災などに遭い、現在の本堂は昭和40年(1965)に再建された。その他、国札所、「甲斐国三十三観音霊場」(第二十一番《上の堂》:本尊十一面観世音菩薩、第二十二番《下の堂》:本尊聖観世音菩薩)となっている。また、「甲斐百八霊場」第二番の札所でもある。なお、2つの観音堂は、平成9年に再建された。
名称 | 光福寺 |
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読み方 | こうふくじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 055-233-2819 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
巡礼の詳細情報
甲斐百八霊場 第2番 | 御本尊:阿弥陀如来 |
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詳細情報
宗旨・宗派 | 浄土宗 |
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創建時代 | 1095年(嘉保2年) |
開山・開基 | 空源法印 |
ご由緒 | 岩泉山光福寺は、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光が「後三年の役」のとき奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として真言宗の岩泉山寂静院を創立したのがはじまりである。 南北朝期の応安5年(1372)に山崩れがあり、堂宇は悉く破壊され、荒廃していたものを天文16年(1547)に武田晴信(信玄)が権少僧都円全を中興開山として再興した。 その後、慶長10年(1605)3月鎌倉から萬誉助往和尚を迎えて翌11年2月知恩院直末に編入、寺号を光福寺として浄土宗に改宗、第一世となる。 その後、たびたび火災などに遭い、現在の本堂は昭和40年(1965)に再建された。その他、国札所、「甲斐国三十三観音霊場」(第二十一番《上の堂》:本尊十一面観世音菩薩、第二十二番《下の堂》:本尊聖観世音菩薩)となっている。また、「甲斐百八霊場」第二番の札所でもある。なお、2つの観音堂は、平成9年に再建された。 |
体験 | 御朱印札所・七福神巡り |
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