かじゅうじ|真言宗山階派大本山|亀甲山
勧修寺京都府 小野駅
9:00~16:00
京都非公開文化財特別公開での参拝。ここは京都市内では紅葉早めの部類に入るところですがそれでも少し色づき始めたぐらいでした。通常非公開の宸殿・書院・本堂が開放されており、土佐光起の近江八景、土佐光成の竜田川紅葉図襖絵はなかなかのもの。特に紅葉図は襖絵が外の楓に繋がるように描かれているらしく紅葉シーズンは圧巻とのこと。ただしその頃には特別拝観は終わっているというオチ付きでした😅本堂では御本尊の千手観音を間近で拝見させていただきました🤗
京都市山科区にあるお寺です。
山号は亀甲山
宗旨宗派は真言宗山階派
寺格は大本山
ご本尊は千手観音
です。
皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院で、門跡寺院でもあり、「山階門跡」と称します。
応仁の乱で焼失しますが、徳川家と皇室の援助により再興されました。
明治5年から明治14年にかけて、勧修寺内の一部が勧修小学校として使用された歴史もあります。
京都市指定の名勝庭園が美しいです。
真言宗の寺院を象徴するかのように、修行大師の像や四国八十八か所絵図がありました。
ただ、少しびっくりしたのが、池を周遊する道の入口に 「この先、行かれるのはご自由ですが、大いに危険」 と書かれた警告文があったことです。
写真も撮りましたが、確かに誰も足を踏み入れてなさそうな所でした。
大いに危険 の先にあるもの
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。
宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。
創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。
前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
名称 | 勧修寺 |
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読み方 | かじゅうじ |
参拝時間 | 9:00~16:00 |
参拝料 | 400円 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 075-571-0048 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
真言宗十八本山 第10番 | 御本尊:千手観音 |
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ご本尊 | 千手観音 |
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山号 | 亀甲山 |
宗旨・宗派 | 真言宗山階派大本山 |
創建時代 | 900年(昌泰3年) |
開山・開基 | 醍醐天皇・承俊律師 |
ご由緒 | 『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。
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体験 | 御朱印花の名所 |
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