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だいしんじ|浄土宗霊松山

大信寺
群馬県 篠塚駅

パーキング
駐車場
あり

あり

御朱印について御朱印
あり
ありません
限定
-
御朱印帳
-
ありません

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くし
くし
2022年11月05日(土)1703投稿

以前行った時はコロナ禍で日和り中だったのですが、さすがにもう大丈夫だろうと思い受印しに行くことに。

毎月寺コンサートとかいろいろ行事をやってるお寺なので、事前にお寺のHPを見たところ、今日は「六時礼讃会」という「群馬県の浄土宗の青年僧が集まり1日6回法要を行う」という何やら凄そうな行が開催されてる様子。
おお!これは今日は確実に住職がいる☆(゚∀゚)
・・・あ、でも待てよ? 1日ぶっ続けの法要じゃ忙しくて対応してもらえないのでは?( ´・ω・`)
吉と出るか凶と出るか、とりあえず寄ってみることに。

駐車場に着いたところ車は一台も止まっておらず、あれ、おかしいな・・・日にち間違えた?(・・;)といささか不安になりつつ山門をくぐったところ、本堂に近づくにつれて朗々とした誦経が・・・おお!(゚∀゚)
本堂内では多数のお坊さんがお経を唱和♪ これは御利益ない方がおかしいというくらいの雰囲気の中で参拝(* ̄人 ̄*)

さて庫裏に向かおうとしたところ、奥様がいつの間にか花手水の手入れをしていて「何かご用ですか?」と。
御朱印をお願いしたところ、奥様が住職に「御朱印の人が来てます」と電話してくれたのですが、電話の向こうから聞こえてきたのは「あぁん?(´゚д゚`)」というあからさまにメンド臭そうな住職の声(^^;
聞けば毎日この時間を昼寝の時間にしており書けないとの仰せ・・・なんじゃそりゃ?(-ω-;)

というワケで結果は凶でしたw
まぁダメなもんは仕方ないので、近いし機会があったらまた来るわということで寺を後にしました。
実はここが本当は千投稿目に当たる寺だったのですが、栄えある千件目を変な思い出の寺で汚したくなかったので順番入れ換えましたwww  Ψ(`∀´)Ψケケケ

大信寺の山門・神門

着いてみたものの車も1台も止まっておらず、本当にそんな大法要会やってるのか?(・・;)

大信寺の山門・神門

山門

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歴史

大信寺の創建は元亀元年(1570)、内藤大和守(北条氏房の叔父) が開基となり総誉清巌上人を招いて開山したのが始まりとされます。
徳川家に縁のある寺院で、三代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の墓がある事でも知られています。忠長は容姿端麗で文武に優れていた為、父 徳川秀忠、母 江(浅井長政の三女)から寵愛され次期将軍と期待されていましたが、家光の乳母春日局の画策により家康から家光のお墨付きを戴くと立場を追われ寛永元年(1624)に将軍候補から駿河藩55万石(駿河・遠江・甲府)の大名となりました。
その後、忠長は乱行があったされ寛永8年(1631)に甲府に蟄居を言い渡され、さらに、幕府に許可無く秀忠の菩提を弔う為寺院を建立した事などから高崎城に幽閉、当時の高崎藩主安藤重長は何度も赦免のお伺いを立てましたが認められず寛永10年(1633)に自刃させられました。享年28歳。
忠長は死んでも罪が許されず延宝3年(1675)、四代将軍家綱のとき、死去から43回忌にようやく免罪され霊廟が建立されました。しかし、墓の廻りには鎖が巻かれたままだったそうで「鎖のお霊屋」と呼ばれていました。
当初の霊廟は昭和20年(1945)、戦災により焼失しましたが、戦災から免れた忠長の姉である千姫が供養の為奉納した品々(葵紋付きの硯箱、水晶のつぼ、豊臣秀頼縁の袈裟、婚礼時に使用した金色の銚子)や忠長自筆の手紙、短刀(自刃の際用いたとも)、位牌、墓碑などが残っています。
忠長の墓は高さ2.3mの五輪塔で正面には「峯厳院殿御宝塔」が刻まれ、周囲は石造の玉垣が廻り、門扉には徳川家の家紋である三つ葉葵が掲げられている格式が高いもので、忠長の霊牌や縁の品々と共に昭和41年(1966)に高碕市指定史跡に指定されています。

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大信寺の基本情報

名称大信寺
読み方だいしんじ
トイレあり
御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号0276-88-2062

お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来坐像
山号霊松山
院号正定院
宗旨・宗派浄土宗
創建時代元亀元年(1570)
開山・開基開山 総誉清巌上人、開基 内藤大和守(北条氏房の叔父)
ご由緒

大信寺の創建は元亀元年(1570)、内藤大和守(北条氏房の叔父) が開基となり総誉清巌上人を招いて開山したのが始まりとされます。
徳川家に縁のある寺院で、三代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の墓がある事でも知られています。忠長は容姿端麗で文武に優れていた為、父 徳川秀忠、母 江(浅井長政の三女)から寵愛され次期将軍と期待されていましたが、家光の乳母春日局の画策により家康から家光のお墨付きを戴くと立場を追われ寛永元年(1624)に将軍候補から駿河藩55万石(駿河・遠江・甲府)の大名となりました。
その後、忠長は乱行があったされ寛永8年(1631)に甲府に蟄居を言い渡され、さらに、幕府に許可無く秀忠の菩提を弔う為寺院を建立した事などから高崎城に幽閉、当時の高崎藩主安藤重長は何度も赦免のお伺いを立てましたが認められず寛永10年(1633)に自刃させられました。享年28歳。
忠長は死んでも罪が許されず延宝3年(1675)、四代将軍家綱のとき、死去から43回忌にようやく免罪され霊廟が建立されました。しかし、墓の廻りには鎖が巻かれたままだったそうで「鎖のお霊屋」と呼ばれていました。
当初の霊廟は昭和20年(1945)、戦災により焼失しましたが、戦災から免れた忠長の姉である千姫が供養の為奉納した品々(葵紋付きの硯箱、水晶のつぼ、豊臣秀頼縁の袈裟、婚礼時に使用した金色の銚子)や忠長自筆の手紙、短刀(自刃の際用いたとも)、位牌、墓碑などが残っています。
忠長の墓は高さ2.3mの五輪塔で正面には「峯厳院殿御宝塔」が刻まれ、周囲は石造の玉垣が廻り、門扉には徳川家の家紋である三つ葉葵が掲げられている格式が高いもので、忠長の霊牌や縁の品々と共に昭和41年(1966)に高碕市指定史跡に指定されています。

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