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だいしんじ|浄土宗霊松山

大信寺の御由緒・歴史
群馬県 篠塚駅

ご本尊阿弥陀如来坐像
創建時代元亀元年(1570)
開山・開基開山 総誉清巌上人、開基 内藤大和守(北条氏房の叔父)
ご由緒

大信寺の創建は元亀元年(1570)、内藤大和守(北条氏房の叔父) が開基となり総誉清巌上人を招いて開山したのが始まりとされます。
徳川家に縁のある寺院で、三代将軍徳川家光の実弟徳川忠長の墓がある事でも知られています。忠長は容姿端麗で文武に優れていた為、父 徳川秀忠、母 江(浅井長政の三女)から寵愛され次期将軍と期待されていましたが、家光の乳母春日局の画策により家康から家光のお墨付きを戴くと立場を追われ寛永元年(1624)に将軍候補から駿河藩55万石(駿河・遠江・甲府)の大名となりました。
その後、忠長は乱行があったされ寛永8年(1631)に甲府に蟄居を言い渡され、さらに、幕府に許可無く秀忠の菩提を弔う為寺院を建立した事などから高崎城に幽閉、当時の高崎藩主安藤重長は何度も赦免のお伺いを立てましたが認められず寛永10年(1633)に自刃させられました。享年28歳。
忠長は死んでも罪が許されず延宝3年(1675)、四代将軍家綱のとき、死去から43回忌にようやく免罪され霊廟が建立されました。しかし、墓の廻りには鎖が巻かれたままだったそうで「鎖のお霊屋」と呼ばれていました。
当初の霊廟は昭和20年(1945)、戦災により焼失しましたが、戦災から免れた忠長の姉である千姫が供養の為奉納した品々(葵紋付きの硯箱、水晶のつぼ、豊臣秀頼縁の袈裟、婚礼時に使用した金色の銚子)や忠長自筆の手紙、短刀(自刃の際用いたとも)、位牌、墓碑などが残っています。
忠長の墓は高さ2.3mの五輪塔で正面には「峯厳院殿御宝塔」が刻まれ、周囲は石造の玉垣が廻り、門扉には徳川家の家紋である三つ葉葵が掲げられている格式が高いもので、忠長の霊牌や縁の品々と共に昭和41年(1966)に高碕市指定史跡に指定されています。

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