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御朱印について
御朱印
-
ありません
名称影隠地蔵
読み方かげかくしじぞう
参拝料

なし

トイレなし
御朱印なし

詳細情報

ご本尊地蔵尊
宗旨・宗派
文化財

影隠地蔵(市指定文化財)

ご由緒

この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となった時、難を避ける目的で一時的に地蔵の背後にその姿を隠したためと言われています。
義高は源義仲(木曾義仲)の嫡男で、義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のための人質として差し出され、頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲が良かったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し、後白河法皇の命を受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ、義仲は敗れて討たれました。
義高が我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫の計らいで鎌倉から逃れ、父の出身地でもあり関係の深かった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向かいました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ、娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙われた義高は元暦元年(1184)四月、この入間川の地まできた時に、追手の堀藤次親家らに追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難を逃れたものの、ついには捕らえられ、藤内光澄に斬られたといわれています。
地蔵尊はかつては木像で地蔵堂があり、その中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。また、石の地蔵になったのは明治七年(1784)のことで、明治政府がとった廃仏毀釈により、木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇を憐れんだ村人が地蔵尊を建てたとも言われているなど、変わりゆく時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。

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