きょうしんじ|天台宗|念仏山
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#播州賀古 #念佛山
四季を通して美しく、特に春の桜🌸の時季は
息をのむほど美しい光景が広がる天台宗の寺です。
一遍上人や親鸞聖人にも先達として仰がれた、平安時代前期の僧・沙弥教信の庵跡に建てられました。
境内の開山堂には教信上人の頭部のみの像が本尊として祭られており、康正2(1456)年の修理銘が確認されています。
いつお伺いしても、開山堂は光に溢れ 心の拠り所のような場所でもあります。
年番の塔頭不動院さまには #ムラサキシキブの実 が成っていました。
山号 #念佛山
宗派 #天台宗
御本尊 #阿弥陀如来
創建年 836年(承和3年)
開基 #教信上人
別称 #野口のねんぶったん
#教信上人御命日9月15日
札所 #播州薬師霊場8番札所
御本堂
薬師堂
開山堂
総門
山王権現堂
教信上人廟
阿弥陀石仏
鐘楼
塔頭
不動院(年番)
法泉院
常住院
遍照院
#開山堂御本尊
#浄土宗西山禅林寺派
#賀古駅家(かこのうまや)
#西国街道
#風土記の道
#わがまち加古川70選No8
#兵庫県加古川市野口町野口465
薬師堂
御本堂
塔頭 不動院
山門に 教信寺年番事務所(2024年)
ムラサキシキブ
教信上人御廟所
教信寺
~穏やかな春空 賀古の駅
播州薬師霊場御朱印~
山号 念仏山
宗派 天台宗
御本尊 阿弥陀如来
創建年 836年(承和3年)
開基 教信上人
別称 野口のねんぶったん
札所等
播州薬師霊場 第八番
文化財
教信上人頭像
石造五輪塔(兵庫県指定文化財)
御縁起
当山は平安初期日本浄土思想、特に口称念仏の創始者教信沙彌の開基である。
奈良の貴族佛教に満足できなかった沙彌は当地賀古の駅の北辺の庵に起居しもっぱら阿弥陀仏の称名に明け暮れると共に、旅人の荷を運び農耕を手伝い、ついには駅ヶ池を造り社会福祉と生産活動をしながら易行念仏に終始した。
特殊な人にしか出来ない難行苦行や荘厳な儀礼よりも法蔵菩薩の弘誓に救われているという自覚に立ち、人間生活の中で一隅を照らす道を実践した遺跡である。鎌倉時代には親鸞聖人が理想的先輩と仰ぎ、一遍上人も当寺を訪れ示寂の地にしたいとさえした処である。
室町時代には堂宇十三僧坊四十八を数える大伽藍になっていた記録があるが、戦国末期、毛利勢と信長配下の秀吉勢力の接点として激戦の地となり天正六年(1578年)春全焼、江戸初期寛永十九年(1642年)現在の姿にまで復興した。
幕末期また本堂を焼失したが明治十三年書写山円教寺の念仏道場を移築したのが現本堂である。
春秋の好季には全国的に訪れる人あるが教信沙彌の命日に毎年行う会式を「野口大念仏会」通称(ねんぶったん)と称し、遠近の道俗結縁の拝者多く、俳句の季語にさえなっている。
宗旨宗派に囚われない理想の仏道実践をした教信沙彌であったが、上人の遺跡となる教信寺は、時勢の流れに幾多の盛衰を重ね、南都六宗・平安佛教・鎌倉浄土佛教など各宗各派の宗祖祖師との深いご縁を経て、中世から江戸幕末まで浄土宗西山禅林寺派として最も隆盛し、機内一円より多数の参詣者が海路・陸路で訪れたが、幕末の政情不安から明治維新の廃藩置県や廃仏毀釈で衰退した寺院を復興する為の縁で天台宗となっている。
しかし今日でも、当山への団体参詣者の殆どは浄土佛教系の旁々で、特に融通念仏宗・時宗・浄土宗・浄土真宗(本願寺派・大谷派)の僧侶・坊守・檀信徒・門徒・佛教婦人の皆様が全国各地より大型観光バスを連ねて参詣されている。
のみならず 個別に熱心な浄土佛教思想や伝承文学・歴史民俗学や郷土史等を探求される大学教授・学者・研究者・学生等有識者らも国内外からも教信に引き寄せられるように、口称念仏の先駆者「教信沙彌」の遺跡寺院に季節を問わず探訪される。
#官兵衛の妻光ゆかりのお寺
#西国街道
#風土記の道
#わがまち加古川70選
#野口城
🏯御城印もありました。
加古川市野口町野口465
書写山円教寺の念仏道場を移築されたものが現御本堂です
御本堂左の開山堂
開山堂奥の教信上人御廟所
石造五輪塔(兵庫県指定文化財)
薬師堂
庫裏
見事な枝垂梅
播州薬師霊場 第八番
教信寺御朱印
🐾 🐾
天台宗 念仏山 教信寺
播州薬師霊場 第8番札所
今回は播州薬師霊場巡りでお参りです。
前回9月にもお参りさせていただきましたが、お客様対応で忙しくされていたため御朱印は断念。
出直しで今回お参りしました。
4つの塔頭が輪番でご担当されており、今年は遍照院さんがご担当です。
ご住職が外出しており不在とのことで、御朱印は書置きとなりましたが有り難く頂戴してまいりました。
この辺りは三木城の支城となる野口城(別所長治の家臣である長井四郎左衛門長重の居城)があったところです。
三木合戦の際、黒田官兵衛が指揮する秀吉軍の攻撃に対して、教信寺僧兵・野口城兵が応戦しましたが、三日三晩攻め立てられた末落城したとのこと。
≪縁起≫
平安時代初期の承和3年(836年)、口称念仏の創始者教信沙彌の開基。
奈良・興福寺の僧でしたが、貴族佛教に満足できず、この地に移り阿弥陀仏の称名に明け暮れたそうです。
街道を行き交う旅人達の荷物を運ぶ手伝いを行っていたそうですが、なんと明石~高砂間の約27kmもの距離を運んでいたとか。
大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれていたそうです。
鎌倉時代には親鸞聖人が理想の先輩と仰いでいたそうで、さらに一遍上人も参詣され、その際教信寺で一泊し、念仏踊りを興行したそうです。
これが播州音頭の起源であると言われているそうです。
<本堂>
ご本尊 阿弥陀如来
東脇壇 聖観音菩薩木像
西脇壇 地蔵菩薩
<薬師堂>
ご本尊 薬師三尊
脇壇 大日如来 天台大師 伝教大師
<開山堂>
ご本尊 教信上人頭像
脇壇 二十五菩薩行道面
山門
本堂
薬師堂
開山堂
遍照院さんのお庭
御朱印
歴史
当山は平安初期日本浄土思想、特に口称念仏の創始者教信沙彌(A.D866年寂)の開基である。奈良の貴族佛教に満足できなかった沙彌は当地賀古の駅の北辺の庵に起居しもっぱら阿弥陀仏の称名に明け暮れると共に、旅人の荷を運び農耕を手伝い、ついには駅ヶ池を造り社会福祉と生産活動をしながら易行念仏に終始した。特殊な人にしか出来ない難行苦行や荘厳な儀礼よりも法蔵菩薩の弘誓に救われているという自覚に立ち、人間生活の中で一隅を照らす道を実践した遺跡である。鎌倉時代には親鸞聖人が理想的先輩と仰ぎ、一遍上人も当寺を訪れ示寂の地にしたいとさえした処である。室町時代には堂宇十三僧坊四十八を数える大伽藍になっていた記録があるが、戦国末期、毛利勢と信長配下の秀吉勢力の接点として激戦の地となり天正六年(1578年)春全焼、江戸初期寛永十九年(1642年)現在の姿にまで復興した。幕末期また本堂を焼失したが明治十三年書写山円教寺の念仏道場を移築したのが現本堂である。春秋の好季には全国的に訪れる人あるが教信沙彌の命日に毎年行う会式を「野口大念仏会」通称(ねんぶったん)と称し、遠近の道俗結縁の拝者多く、俳句の季語にさえなっている。
名称 | 教信寺 |
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読み方 | きょうしんじ |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
電話番号 | 0794-24-8919 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.bekkoame.ne.jp/~housenin/link32.html |
巡礼の詳細情報
播州薬師霊場 第8番 |
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詳細情報
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
---|---|
山号 | 念仏山 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 承和三年(836年) |
ご由緒 | 当山は平安初期日本浄土思想、特に口称念仏の創始者教信沙彌(A.D866年寂)の開基である。奈良の貴族佛教に満足できなかった沙彌は当地賀古の駅の北辺の庵に起居しもっぱら阿弥陀仏の称名に明け暮れると共に、旅人の荷を運び農耕を手伝い、ついには駅ヶ池を造り社会福祉と生産活動をしながら易行念仏に終始した。特殊な人にしか出来ない難行苦行や荘厳な儀礼よりも法蔵菩薩の弘誓に救われているという自覚に立ち、人間生活の中で一隅を照らす道を実践した遺跡である。鎌倉時代には親鸞聖人が理想的先輩と仰ぎ、一遍上人も当寺を訪れ示寂の地にしたいとさえした処である。室町時代には堂宇十三僧坊四十八を数える大伽藍になっていた記録があるが、戦国末期、毛利勢と信長配下の秀吉勢力の接点として激戦の地となり天正六年(1578年)春全焼、江戸初期寛永十九年(1642年)現在の姿にまで復興した。幕末期また本堂を焼失したが明治十三年書写山円教寺の念仏道場を移築したのが現本堂である。春秋の好季には全国的に訪れる人あるが教信沙彌の命日に毎年行う会式を「野口大念仏会」通称(ねんぶったん)と称し、遠近の道俗結縁の拝者多く、俳句の季語にさえなっている。 |
体験 | 札所・七福神巡り |
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