せんそうじ
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楽しみ方浅草寺のお参りの記録(4回目)
投稿日:2025年07月14日(月) 20時00分59秒
参拝:2025年7月吉日
7/9日•10日と浅草寺様で『ほおづき市』が開催されていたので行って来ました😆
最終日の夕方近くに行ったので、完売してるお店と少しだけ残ってるお店しかなく購入はしませんでした😢
夕方から雨予報。浅草へ着いたら真っ黒い雲だらけ💦
今にも雷が鳴って大雨になりそうな天気になってきたので急いでお参りもしました🙏
最終日の夕方近くに行ったので、完売してるお店と少しだけ残ってるお店しかなく購入はしませんでした😢
夕方から雨予報。浅草へ着いたら真っ黒い雲だらけ💦
今にも雷が鳴って大雨になりそうな天気になってきたので急いでお参りもしました🙏

7月9日•10日 限定御朱印
通年御朱印に「四万六千日」の判が押されています。
通年御朱印に「四万六千日」の判が押されています。

☆雷門(風雷神門)☆
雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」といいます。その創建年代は詳らかではありませんが、平公雅が天慶5年(942年)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わっています。
雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」といいます。その創建年代は詳らかではありませんが、平公雅が天慶5年(942年)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わっています。

☆仲見世☆
仲見世は浅草寺の表参道で、雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって参道の両側に朱塗りの店舗が並びます。日本で最も古い商店街のひとつであり、いつも活気に溢れています。仲見世という名は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいう。
もともと雷門をくぐったあたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院のいくつかが並んでいました。浅草寺ご本尊•観音さまへの崇敬はもとより、これら支院に祀られていた天照大神宮•秋葉権現•出世大黒天•鹿島明神などの神仏も多くの参拝者を集めていました。
参拝者の増加にともない、浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えました。貞享2年(1685年)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれています。
仲見世は浅草寺の表参道で、雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって参道の両側に朱塗りの店舗が並びます。日本で最も古い商店街のひとつであり、いつも活気に溢れています。仲見世という名は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいう。
もともと雷門をくぐったあたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院のいくつかが並んでいました。浅草寺ご本尊•観音さまへの崇敬はもとより、これら支院に祀られていた天照大神宮•秋葉権現•出世大黒天•鹿島明神などの神仏も多くの参拝者を集めていました。
参拝者の増加にともない、浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えました。貞享2年(1685年)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれています。

☆宝蔵門(仁王門)☆
昭和20年(1945年)、仁王門は東京大空襲により観音堂•五重塔•経蔵などとともに焼失する。昭和39年(1964年)に鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建されました。経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と改称されました。
昭和20年(1945年)、仁王門は東京大空襲により観音堂•五重塔•経蔵などとともに焼失する。昭和39年(1964年)に鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建されました。経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と改称されました。


☆御本堂☆
浅草寺の本堂はご本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる堂宇です。
国宝に指定されていた旧本堂は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲により焼失しまたが、その後全国のご信徒からのご浄財により、昭和33年(1958年)に今日の本堂が再建されました。
浅草寺の本堂はご本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる堂宇です。
国宝に指定されていた旧本堂は昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲により焼失しまたが、その後全国のご信徒からのご浄財により、昭和33年(1958年)に今日の本堂が再建されました。



ほおづき市の様子😊


☆龍神像(沙竭羅龍王像)☆
手水鉢の上にあり、以前は御本堂裏の噴水の上に祀られていました。
手水鉢の上にあり、以前は御本堂裏の噴水の上に祀られていました。

☆影向堂☆
本堂の北西に建つ、寄棟造りの堂宇が影向堂。現在の影向堂は、平成6年(1994年)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立されました。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れることです。浅草寺では、観世音菩薩のお説法やご活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆」と呼び、影向堂に生れ年(干支)ごとの守り本尊八体(影向衆)を祀る。堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音•虚空蔵菩薩•文殊菩薩•普賢菩薩•勢至菩薩•大日如来•不動明王•阿弥陀如来をお祀りしています。
また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っています。影向堂は当山の朱印所であり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしています。
本堂の北西に建つ、寄棟造りの堂宇が影向堂。現在の影向堂は、平成6年(1994年)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立されました。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れることです。浅草寺では、観世音菩薩のお説法やご活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆」と呼び、影向堂に生れ年(干支)ごとの守り本尊八体(影向衆)を祀る。堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音•虚空蔵菩薩•文殊菩薩•普賢菩薩•勢至菩薩•大日如来•不動明王•阿弥陀如来をお祀りしています。
また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っています。影向堂は当山の朱印所であり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしています。

☆久米平内堂(くめのへいないどう)☆
縁結びのパワースポットと云われているお堂です😊
江戸時代(貞享年代1684年〜1687年)に建てられたものの、安政三年の震災により破壊されましたが再建。そして昭和20年の東京大空襲でも焼け落ちてしまい、昭和53年にふたたび再建された長い歴史があります。
昔、久米平内という男がいました。この人物、千人斬りを行なった剣の達人(別の説では処刑を執行する首切り役人とも)でした。おおいに凄腕を振るったあと、やがて禅の道に入ります。多くの人を殺めてきた平内、罪を償いたい思いから自分の仁王坐像を石に掘らせ道に埋めました。この石像を浅草寺境内に埋め、参拝者に踏みつけてもらうことで罪滅ぼしをしたいと願ったのです。平内の死後、この石像は掘り起こされてお堂に納められました。
粋と遊び心あふれる江戸時代。踏みつけが転じて文付け(恋文)となり男女ともに庶民から人気の「縁結び信仰」の対象になりました。
お墓は文京区の海蔵寺にあり、妻のお里と共に眠っています。
縁結びのパワースポットと云われているお堂です😊
江戸時代(貞享年代1684年〜1687年)に建てられたものの、安政三年の震災により破壊されましたが再建。そして昭和20年の東京大空襲でも焼け落ちてしまい、昭和53年にふたたび再建された長い歴史があります。
昔、久米平内という男がいました。この人物、千人斬りを行なった剣の達人(別の説では処刑を執行する首切り役人とも)でした。おおいに凄腕を振るったあと、やがて禅の道に入ります。多くの人を殺めてきた平内、罪を償いたい思いから自分の仁王坐像を石に掘らせ道に埋めました。この石像を浅草寺境内に埋め、参拝者に踏みつけてもらうことで罪滅ぼしをしたいと願ったのです。平内の死後、この石像は掘り起こされてお堂に納められました。
粋と遊び心あふれる江戸時代。踏みつけが転じて文付け(恋文)となり男女ともに庶民から人気の「縁結び信仰」の対象になりました。
お墓は文京区の海蔵寺にあり、妻のお里と共に眠っています。

☆三峰神社☆

☆六角堂☆

☆銭塚地蔵堂☆
堂内に六地蔵尊が安置されています。このお像の下には江戸時代の貨幣「寛永通宝」が埋められているといわれていて、この地蔵尊の由来は次のようなものである。
享保年間(1716年~1736年)に摂津国有馬郡(現在の兵庫県西宮市)に山口某という武士の妻がおり、夫とふたりの子供と暮らしていた。貧しいながらも彼女は武士の妻としての誇りを失わず、他人からの援助を断って清貧の生活を送っていた。ある時、子供らが庭先に埋まっていたたくさんの寛永通宝を掘り当てた。しかし彼女は、理由のない金を自分のものにするのは恥と考え、金を埋め戻させた。この賢い母に育てられ、子供らは立派に成長し家が繁栄したので、子供らは金を埋めた場所に地蔵尊を祀ったという。これが現在、西宮市山口町に残る銭塚地蔵尊である。この地蔵尊の御分霊を勧請したのが浅草寺の銭塚地蔵堂であり商売繁昌のご利益を求めて祈願する人が多い。
堂内に六地蔵尊が安置されています。このお像の下には江戸時代の貨幣「寛永通宝」が埋められているといわれていて、この地蔵尊の由来は次のようなものである。
享保年間(1716年~1736年)に摂津国有馬郡(現在の兵庫県西宮市)に山口某という武士の妻がおり、夫とふたりの子供と暮らしていた。貧しいながらも彼女は武士の妻としての誇りを失わず、他人からの援助を断って清貧の生活を送っていた。ある時、子供らが庭先に埋まっていたたくさんの寛永通宝を掘り当てた。しかし彼女は、理由のない金を自分のものにするのは恥と考え、金を埋め戻させた。この賢い母に育てられ、子供らは立派に成長し家が繁栄したので、子供らは金を埋めた場所に地蔵尊を祀ったという。これが現在、西宮市山口町に残る銭塚地蔵尊である。この地蔵尊の御分霊を勧請したのが浅草寺の銭塚地蔵堂であり商売繁昌のご利益を求めて祈願する人が多い。



☆カンカン地蔵☆
銭塚地蔵堂にそのお姿がほとんど原型をとどめていない石像が安置されています。もとは大日如来像と伝わるが、現在は「カンカン地蔵」と呼ばれています。お参りの人が石で打って祈ると「カンカン」という金属音がすることが由来といい、塩を奉納して祈願すると財福のご利益があるといわれています。
銭塚地蔵堂にそのお姿がほとんど原型をとどめていない石像が安置されています。もとは大日如来像と伝わるが、現在は「カンカン地蔵」と呼ばれています。お参りの人が石で打って祈ると「カンカン」という金属音がすることが由来といい、塩を奉納して祈願すると財福のご利益があるといわれています。

☆手水鉢☆

☆九代目市川團十郎像☆
九代目市川團十郎像は、浅草寺境内の本堂裏にある銅像で、歌舞伎十八番の一つ「暫」で見得を切る姿をしています。この像は、明治時代に活躍した歌舞伎役者、九代目市川團十郎の功績を称え、大正8年(1919年)に建立されましたが、戦時中の金属供出により一度失われ、昭和61年(1986年)に復元されたものです。
九代目市川團十郎像は、浅草寺境内の本堂裏にある銅像で、歌舞伎十八番の一つ「暫」で見得を切る姿をしています。この像は、明治時代に活躍した歌舞伎役者、九代目市川團十郎の功績を称え、大正8年(1919年)に建立されましたが、戦時中の金属供出により一度失われ、昭和61年(1986年)に復元されたものです。

☆淡島堂☆
元禄年間(1688年~1704年)、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)加太の淡島明神を勧請して建てられました。現在の建物は、東京大空襲で本堂が焼失した後、仮本堂となり御本尊様をお守りしました。やがて影向堂として現二天門の南に移り、平成6年に今の地に移築されました。
加太淡島神社の祭神は少彦名命で、淡島という小島に鎮座しているため、淡島明神の俗称がある。このことから浅草寺では淡島堂と呼んでいます。淡島堂には、本尊の阿弥陀如来像、淡島明神像と本地仏の虚空蔵菩薩像、取子地蔵尊などが安置されています。
元禄年間(1688年~1704年)、紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)加太の淡島明神を勧請して建てられました。現在の建物は、東京大空襲で本堂が焼失した後、仮本堂となり御本尊様をお守りしました。やがて影向堂として現二天門の南に移り、平成6年に今の地に移築されました。
加太淡島神社の祭神は少彦名命で、淡島という小島に鎮座しているため、淡島明神の俗称がある。このことから浅草寺では淡島堂と呼んでいます。淡島堂には、本尊の阿弥陀如来像、淡島明神像と本地仏の虚空蔵菩薩像、取子地蔵尊などが安置されています。


☆五重塔☆
昭和48年(1973年)に再建された、鉄骨•鉄筋コンクリート造りの塔です。外から見ると五重塔は地上面から建っているように見えますが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っています。
塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源とする。浅草寺の五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966年)に奉戴した仏舎利が納められています。
昭和48年(1973年)に再建された、鉄骨•鉄筋コンクリート造りの塔です。外から見ると五重塔は地上面から建っているように見えますが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っています。
塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源とする。浅草寺の五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966年)に奉戴した仏舎利が納められています。

☆狛犬様☆

☆弁天山☆
本堂南東にある小高い丘は、弁財天を祀る弁天堂が建つことから弁天山と呼ばれています。弁財天は池中の小島に祀られることが多いですが、弁天山もかつては池の中にありました。現在、池は埋め立てられて公園となっています。
弁財天は七福神のなかの唯一の女神で、弁天堂のご本尊は白髪であるため、「老女弁天」と通称されている。この弁財天は神奈川県藤沢市の江ノ島弁天、千葉県柏市の布施弁天と並んで「関東の三弁天」として名高い。
本堂南東にある小高い丘は、弁財天を祀る弁天堂が建つことから弁天山と呼ばれています。弁財天は池中の小島に祀られることが多いですが、弁天山もかつては池の中にありました。現在、池は埋め立てられて公園となっています。
弁財天は七福神のなかの唯一の女神で、弁天堂のご本尊は白髪であるため、「老女弁天」と通称されている。この弁財天は神奈川県藤沢市の江ノ島弁天、千葉県柏市の布施弁天と並んで「関東の三弁天」として名高い。

☆狛犬様☆

☆弁天堂☆

☆鐘楼☆
弁天堂に向かって右手にあります。そこに掛けられている鐘は「時の鐘」で、鐘は元禄5年(1692年)に五代将軍徳川綱吉の命により改鋳され、江戸の市中に時を告げていた鐘のひとつ。
戦時中、多くの寺の鐘が供出を余儀なくされたなかで、弁天山の「時の鐘」は特に由緒がある鐘ということで残されました。現在も毎朝6時に役僧によって撞かれており、大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされています。
弁天堂に向かって右手にあります。そこに掛けられている鐘は「時の鐘」で、鐘は元禄5年(1692年)に五代将軍徳川綱吉の命により改鋳され、江戸の市中に時を告げていた鐘のひとつ。
戦時中、多くの寺の鐘が供出を余儀なくされたなかで、弁天山の「時の鐘」は特に由緒がある鐘ということで残されました。現在も毎朝6時に役僧によって撞かれており、大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされています。

☆地蔵菩薩像•阿弥陀如来像☆

☆阿弥陀如来像☆

☆二尊仏☆
すてき
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malice 778投稿
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ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。




