いみのみやじんじゃ
忌宮神社のお参りの記録一覧
神功皇后三韓征伐と長門國。長門國二宮忌宮神社に参拝しました。 延喜式神明帳「山陽道神長門國豊浦郡忌宮神社」に比定される小社。
御祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
創祀 仲哀天皇八年(一九九年)、天照大神と住吉三神の託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を神功皇后が三韓征伐の帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝えています。聖武天皇の御世に神功皇后、応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し三殿別立になっていたが中世に火災により全てを「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれる様になった。
境内社荒熊稲荷神社
長門国豊浦郡の式内社で、同国二宮です。
元々は第14代仲哀天皇さまが三韓征伐に向かう途中に滞在した行宮「穴門豊浦宮」であり、香椎で天皇さまが神託に背いたため崩御したあとの殯宮の地ともされています。これが現社名の"忌"が指すものであり、郡名の由来元である歴史ある神社です。
《鳥居と灯籠》
《石灯籠》
なんかものすごいアンバランス感を保っています。
《鬼石》
豊浦宮を営んでいたときに新羅から塵輪という人物が熊襲を煽動して攻め入り、臣下を破るなど攻勢を見せていましたが、天皇自ら弓を引いて討ち、その遺体の周りを皇軍が喜び回る間、鬼のような顔をしていたそうです。
この石の下には塵輪の首が納められているそうです。
例祭の奉射祭で弓を引くのはこの事績に由来します。
《手水舎》
近づくと水が出ます。
《神門》
明治期には国幣小社な列格し、現在は神社本庁下の別表神社となっています。
《由緒書き》
なかなか珍しい名前の祭事が多いですね。
《拝殿》
👁チェックポイント‼️
当社は瀬戸内海沖に飛地境内として満珠島と干珠島を持ち、原生林が天然記念物となっています。この島は神功皇后さまが住吉三神さまから賜った潮干珠と潮満珠からできたという伝承があり、源平合戦の壇ノ浦の戦いでも源氏軍が拠点としたそうです。
《扁額》
「忌」と聞くと忌避や忌引など悪い意味に感じますが、本来は忌→斎を意味する言葉で清浄を意味します。仲哀天皇さまが崩御され、現在の忌引と同義である「殯」の期間にご遺体を安置する場所として清らかな場所であったことが窺えます。
《荒熊稲荷神社》
いつもお世話になっておりま(🤛
《境内の鳩》
授与所にはハトの餌があり、親子連れが買いに向かった途端にまだ買ってもないうちからハトが寄っていって大群になってました。
【長門國 式内社巡り】
忌宮神社(いみのみや~)は、山口県下関市長府宮の内にある神社。式内社で、長門國二之宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。
仲哀天皇元年(192年)に仲哀天皇は熊襲征討のため当地を訪れ、行宮・豊浦宮を創建した。『日本三大実録』によると、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王が渡来して当地に住みつき蚕の卵を奉献したとされ、豊浦宮は蚕種渡来の地とされている。
社伝によると、仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による宣託を疑ったため筑紫の香椎でなくなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮跡に祀ったのが当社の始まり。飛鳥時代の聖武天皇の御代に神功皇后と応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る豊浦宮、神功皇后を祀る忌宮、応神天皇を祀る豊明宮の三殿分立の神殿とされた(のち火災を機にすべて忌宮に合祀された)。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「長門國 豊浦郡 忌宮神社 小」に比定されている。1336年に足利尊氏が戦勝祈願を行い、翌年法楽和歌を奉納している。中世以降は、当地領主の毛利家の篤い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社が置かれた。明治時代に入り、近代社格制度のもと国幣小社に列格した。
当社は、JR山陽本線・長府駅の南西3kmの市街地、ごく緩やかな傾斜地にある。長府の中心地にあるが境内は広々としている。社殿は大きく、左右両側の建物と渡り廊下と境内社で接続しているユニークな造り。荒熊稲荷神社や八坂神社などの境内社が、それぞれ独自に鳥居、瑞垣、手水舎などを有しているのも特徴。あと、市街地寄りの境内東側に相撲資料館がある。
今回は、長門國の式内社、長門國二之宮、旧国幣小社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午前中で、あいにくの小雨にもかかわらず、自分以外にもぱらぱらと参拝者が訪れていた。
境内南端入口全景。写真左端に見える大きな樹木は「乃木希典将軍御手植えの楠」。
鳥居をくぐり階段を上がったところ左手にある、豪快な自然石の<石燈籠>。
広々とした境内は、非常にきれいに掃き清められている。闊歩する鳩たちも気持ち良さそう。
神門前の階段の手前にある<鬼石>。熊襲平定のため豊浦宮を建てた仲哀天皇が、攻め込んできた新羅国・塵輪(じんりん)を弓で射殺した。塵輪の首を埋めて覆ったのがこの「鬼石」で、その名称は塵輪の顔が鬼のようであったことに由来するとのこと。
神門前の階段の左手にある<手水舎>。
階段を登って<神門>をくぐる。
神門前左側の<狛犬>。現代風。
神門前右側の<狛犬>。
神門をくぐって正面にある<拝殿>。
<拝殿>正面。
社殿の左手にある<授与所>。御朱印はこちら。
社殿と授与所を繋ぐ塀に<門>が設置されている。
門の中を覗くと、渡廊下の途中に境内社の<若宮社>がある。仁徳天皇を祀る。
若宮社のある門の前から<社殿>全景。拝殿後ろの本殿は、色違いの屋根になっている。
社殿の右手にある建物。特に表札はないが、参集殿として使っているのかな。
社殿と上の建物を繋ぐ塀に<門>が設置されている。
門の中を覗くと、渡廊下の途中に境内社の<高良社>がある。地主大神、武内宿禰を祀る。
高良社のある門の前から<社殿>全景。
社務所の左手、瑞垣の外にある<八坂神社>の鳥居。
<八坂神社>の社殿。
境内の東部、東鳥居を上がったところにある<荒熊稲荷神社>。
最初、鳥居、瑞垣、社務所、社殿、境内社が揃っているので、別個独立の神社かと勘違いした。(^_^;)
<荒熊稲荷神社>の拝殿正面。
<荒熊稲荷神社>の境内社。左から順に<三八稲荷神社>、<月見稲荷神社>、<豊市稲荷>。
瀬戸内海に浮かぶ<満珠島(右)・干珠島(左)>も、当社の飛地境内となっている。こちらはなんと、国の天然記念物。
写真は、当社の南東1kmの海際の高台にある<豊功神社>から見た<満珠島・干珠島>。(^▽^)/
(2022年9月の参拝です。)
今回は下関方面へ。
北九州に所用があり、1日休みを頂いてあるルーツを探しに下関に行きました。
台風が迫っていたため、あまり動けなかったりトラブったりリサーチ不足、コロナ禍であまりお参りできませんでした。
まずは長府に行き長門二宮・忌宮神社に参拝し御朱印をいただきました。
忌宮神社では御朱印帳をいただきました。
数方庭祭と拝殿が描かれています。
忌宮神社は下関市長府の中心部に鎮座します。
仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した豊浦宮の跡だそうです。
鬼石は豊浦宮に攻めてきた新羅の武将の首を埋めた場所です。
数方庭祭りは鬼石の周りを中心に男子は幟を、女子は灯篭をつるした笹竹をもち踊ります。
ご祭神は仲哀天皇と神功皇后、応神天皇で
熊襲平定のため、ここに斎宮を建て神祇を祀られたのと言われております。
(コロナ禍のため摂社の御朱印は頂いておりません)
#忌宮神社
#山口県
#下関市
#御朱印
#御朱印帳
御朱印
御朱印帳
由緒書
大鳥居
鳥居
狛犬
手水舎
神門
鬼石
拝殿
扁額
さか松
古江小路(長府の武家屋敷跡)
『忌』っていえば『忌野清志郎』なんだけど〜 関係ないよね〜😅
正面
由緒
石鬼
ここにも神功皇后伝説
下関の神社はみんなこのような案内があるのだろうか?
拝殿
門からの拝殿
境内
忌宮神社【いみのみや神社】
主祭神 第一殿 仲哀天皇
第二殿 神功皇后
第三殿 応神天皇
社格等 式内社(小)
長門国二宮
旧国幣小社
別表神社
創建 仲哀天皇8年(199年)
例祭 12月15日
主神事 数方庭祭(8月7-13日)
御斎神事(12月7日-15日)
仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられました。
三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫・功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされます。
仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝えます。
聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていました。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀されました。
「長門国豊浦郡 忌宮神社」
延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納します。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれました(現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され豊功神社として祀られています)。
古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきました。
御斎神事(おいみしんじ) 例祭日 12月15日。
その前の12月7日夕刻から15日暁までは「御斎祭」として、境内に注連縄を張り巡らされ、神職も境内の外へ出ないという厳重な物忌みが行われます。
御斎神事中は深夜に様々な秘祭が行われ、この間神職は風呂に入れず、髭も剃れません。また、日々の食事も制限され粥と漬け物、お湯だけで過ごし、15日暁の忌明けと同時に身を清め、例祭に備えられます。
神事の開始を告げる境外摂社守宮司神社での板神楽神事を始め、御衣・御神宝調製、三朝神事、全神職の海中潔斎、御衣・御神宝奉納の御祭が主な祭です。
長門一の宮である住吉荒魂本宮でも概ね同様の神事が行われるそうです。
16日の夕刻には御斎神事と例祭の無事終了の報告を守宮司神社で行い後烏神事と呼ばれ、忌宮神社を上位の神職から出立し、後烏神事後は下位の神職から忌宮神社へ帰社されます。
帰社の際、惣社町の町民が囃歌と共にお見送をされます。
数方庭祭(すほうてい祭)
8月7日から13日まで7夜に渡って行われる祭。
仲哀天皇7年、新羅の塵輪(じんりん)の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃しましたが、仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を討ち、熊襲を撃退されました。
戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝えます。
石見神楽など、各地方に伝わる神楽舞には「塵輪」という演目がありますが、本伝説が基といわれます。
一説では塵倫は巨大な怪鳥であったともいわれ数方庭祭を斎行しなかった年に長府の空を大きな鳥の影が飛び疫病が流行り、 塵倫の祟りだと考えた神社、また長府の町民が7日間数方庭祭を続けたところ疫病が治まったことから一週間祭りを行うとも、神功皇后が7日7夜の間、忌籠りされて天地の神々に戦勝を祈願されたという伝説、仲哀天皇の追悼の為、7日間喪に服したことからなど諸説あります。
この7日間は先述の御斎神事期間の由来と同様とされます。
「すほうてい」は他に「スホーデン」「スッポウディ」などと呼ばれ、「数方庭」の他にも「数宝庭」「数方勢」などの当て字があります。
朝鮮半島の「ソッティ」「スサルティ」など音が似ている語との関連も研究されています。
境内中心の鬼石のまわりを男は幟、女は切り籠と呼ばれる笹飾りを持って舞う、幟は最大30m、100kgにもなり修練が必要となります。
もとは戦勝祈願と同時に敵の大将である塵倫や戦で命を落とした者への慰霊・供養の祭であったと言われるが数方庭が数宝庭と書かれたことや様々な信仰が混じり合い、現在は五穀豊穣、子孫繁栄、厄難退除、先祖供養などの祭となっています。
また、魁傑將晃が現役時代、
荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝されました。
荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され魁傑や大乃国康(現芝田山親方)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されています。
若宮社 仁徳天皇
高良社 地主大神・武内宿禰
八坂神社 素戔男尊をはじめ42柱
(神社合祀のため)
荒熊稲荷神社 宇迦之御魂神・宗像三女神
惣社宮 天神地祇
守宮司神社 応神天皇
下関市長府宮の内1-1-8
荒熊稲荷神社
お相撲さんみたいに見えてしまう・・・
天邪鬼
相撲資料館
長府凄すぎです
仲哀天皇 恵我長野西御陵印
神紋の鳥はなんだろう?と思っていたのですが
白鳥だったのですねw
公式ではっきり書いていただいていると有り難いですねw
感謝🙏
印
神紋(白鳥) 忌宮神社
忌宮神社
墨
忌宮神社
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
5
0