深堀観音堂のお参りの記録一覧
深堀観音堂
最上三十三観音の一つ
深堀観音の御本尊は聖観世音で聖徳太子が彫ったものだと伝えられています。変遷は複雑で、案内板によると「・・・(前略)この地に安置されるまで、阿戸見一尾、平重盛、川辺市正、長谷川盛易、九鬼一之進、松永弾正等を経て山形の古館にある大竜寺へ安置された。当時、深堀観音でははじめに安置された観音様のお姿が見えなくなっていた。そこで正徳6年(1716)9月6日、大石田の立光庵海存坊が、大竜寺から深堀へ移遷したものが現在のご本尊である。また堂内には西国三十三観音像と、お前立が奉安されている珍しい観音堂でもある。 山形県環境保護課 」とあります。
深堀観音堂の説明書
入り口はこちら。
鳥居があります。
石碑などが周辺にあります。
お堂ななめから。
さぁ中へ入りましょ!
お堂全体の様子です。
彫刻が素晴らしいです。
中央にいるのが深堀観音様。
山形県北村山郡大石田町に在る、深掘観音堂、大石田町の木々の間にひっそりと佇んでいる深掘観音堂、朱印所は少し行った所の檀家さん宅、どの様な御堂か引用を用いて調べて見ました、元々の山号は香林山、寺号、院号は清行院、宗派は曹洞宗、神仏分離により、住職は神官に戻り、御堂は地区住民管理となる、最上三十三観音霊場、第二十七番札所、出羽百観音の一つ、大石田町都に安戸見一尾という人が、この尊像を持っていたが、その子孫が没落したため、朝夕のお勤めも思うようにならなくなった。そのため、不敬に取扱うことを心配して比叡山に奉納した。その後、安戸見一尾の子孫である川辺市正という武士が、祖先が崇拝した仏であることを知り、須磨寺から貰いうけて守護仏とした。さらに長谷川盛易の手から大和の国橘寺に納めた。続いて、大阪夏の陣の時、九鬼一之進がこれを頂いて戦場に出た。九鬼はこの仏を松永弾正に譲ったが、松永家は徳川幕府に仕え数代の後に浪人となり、奥州白河に住んだ。その子孫が山形市外の古館に住んだが、尊像は大竜寺に安置された。先に深堀にあった観音像が何者かに盗み去られ、村人は適当な仏像を探し求めていたが、大石田の立光庵の海存坊が、大竜寺にある尊像を譲り受けた。深堀、香林山清行院、宗順法印の代で正徳六年九月十六日の事である。それから明治維新となり、神仏混淆を禁じられたため、修験宗の清行院住職法印は神官に復職して行沢糺と改名、明治十一年観音と関係断絶、観音は行沢家より村民に移り交代で管理することになり、ここの尊像は天井裏板の上に安置してあり、屋根換え工事の時でなければ開帳されない。現在のお堂は今から約二百年前の元文元年の建造、歴史的建造物、仏閣、神社巡り、パワースポット、絶景、景色撮影、山形県北村山郡、尾花沢市観光、温泉巡り、銀山温泉、最上三十三観音霊場巡り、三十三観音諸願成就祈願、出羽百観音巡り、癒し処、御朱印集め等好きな方是非訪れて見て下さい。
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