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天台宗六堪山

宗福院の御由緒・歴史
山形県 山形駅

ご本尊聖観世音菩薩、得大勢至菩薩
不動明王
ご由緒

天台宗六椹観音
当山は正式名称を六椹山妙法寺宗福院と号し、天台宗に属する寺院で、総本山は比叡山延暦寺である。
和銅元年(708)、行基菩薩により開基され、貞観二年(860)慈覚大師により中興開山されたと伝えられる。
本尊の聖観世音菩薩、得大勢至菩薩は、行基菩薩の自作と伝えられている木造の仏で、秘仏となっている。

六椹観音は、天台宗の高僧・慈覚大師円仁の中興になる観音霊場として名の知られた寺院である。
貞観二年(860)慈覚大師が巡錫の砌、観音堂の六隅に眼・耳・鼻・舌・身・意の六根如是(人間完成)と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の六趣解脱(極楽往生)の現在と未来の二世安楽を祈り築塚、六本の椹(苦抜き)を植樹、一堂六岳で七髙山妙法寺(如法寺、如来寺とも伝わる)宗福院としたので
六椹の名称が生まれたと云われている。

延久三年(1071)、源頼義公が勅命を奉じて陸奥・出羽の賊徒征伐の為下向途中、当所の地名の六椹が陸奥苦抜き(むつくぬき)と音便が通ずるので不思議に思い戦勝を祈願した処、賊乱を平定(前九年の役)出来たので観音堂を建立し寄進した。
以来、山号も六椹山となったと伝えられている。
山形の初代城主・斯波兼頼公をはじめ、最上義光公や代々の藩主は、四十四石の寺領や堂塔を建立寄進し、
鎮護国家の霊場として特に崇敬したと伝えられている。

江戸時代になっても幕府は同石高の朱印状を発状、寺領を安堵している。
江戸幕府五代将軍徳川綱吉公は葵の紋入り御簾を奉納、八代将軍徳川吉宗公は高野槇を献木するなど皈依が深かったと云う。

斯波兼頼公より五代目の城主・斯波左京太夫頼宗公の息女・光姫という方が、特に観音信仰が篤く、親の追善供養に三十三の観音霊場を巡礼したことが最上札所の始まりだと伝えられています。
江戸時代になると山形札所が始まり、その第一番、最上新西国札所第一番、新八十八ヵ所札所第十二番、川東札所第十九番、東向札所第七番として古くから民衆に親しまれてきた霊場である。

しかし、明治維新の神仏分離令及び廃仏毀釈運動以来、朱印地を失うなど管理が手薄になり、再三の火災にも遭い、庫裡や寺宝等一切を失ってしまいました。
千二百五十年余の歴史を有し、山形市南部最古の名刹と云われながら、記録文書等はほとんど現存しない。
それでも不思議と観音堂だけは災禍を免れ、享保九年(1724)建築の棟札や板札、德川家の葵の紋入り御簾、同時代製作と伝わる賽銭箱、法華経八巻の奉納写経軸などがあり、郡部の老人の間には今でも子育地蔵の由来を物語る伝説が伝わっていて、歴史の重厚さを偲ぶ事が出来る。

一般には椹は「さわら」と読み、ヒノキ科ヒノキ属の高木針葉樹であり、木曾五木の一つであり尾州藩が保護。
くぬぎは「栩」あるいは「椚」と表し、高木落葉樹でドングリという実を付ける。
椹を「くぬぎ」と読むのは山形県独特の読み方で、この六椹観音の影響であろうか詳しい事はわからない。

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