ふだらくさんじ|天台宗|熊野山
補陀洛山寺
和歌山県 那智駅
8:30〜16:00
《世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」その15》
暑い夏の日、熊野へ。
補陀洛渡海で知られる補陀洛山寺です。
補陀洛(補陀落とも書きます)とは観音菩薩が降り立つとされる南方の浄土であり、補陀洛渡海とは単身小船に乗り南方浄土を目指す捨身行のことです。
日本の各地に補陀洛渡海の記録が残っていますが、その大半はここ補陀洛山寺で行われたそうです。
このお寺には復元された渡海船が置かれており、当時の人々の浄土への想いが伝わってきます。
また、平清盛の嫡孫である平維盛の伝説が残る地でもあり、お寺の裏山には供養塔が残されています。
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https://hotokami.jp/area/nara/Hmgts/Hmgtstk/Dktyzm/14778/92581/
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《御朱印》
《補陀洛山寺本堂》
世界遺産の一部ですが人は少なく静かな境内です。
《世界遺産の碑》
補陀洛渡海発祥の地とあります。
境内の観音菩薩と地蔵菩薩
参拝。
夏の空に山の緑が映えます。
本当に静かな境内です。
隣接する熊野三所大神社。
九十九王子の一つ「浜の宮王子」社跡に建ちます。
《補陀洛渡海船》
船上の屋形に扉はありません。
30日分の水・食料とともに渡海上人が乗り込むと入口は板で塞がれ釘が打たれたのです。渡海船は沖へ曳航され、縄が切られて見送られたといいます。
まさしく死出の旅だったのですね…。
裏山に渡海した上人と平維盛の供養塔があります。
石段と木の根の道を上ります。
静かなお寺のさらに裏。人があまり通らないのでしょう、苔が生えた道を上がっていきます。
《平維盛供養塔説明板》
平清盛の嫡孫で美貌の貴公子とされた維盛。
平家物語では那智の沖にある山成島にて自らの名を松の木に刻み沖に漕ぎ出して入水したとされます。
《平維盛供養塔》
しかし、維盛にはそれ以降の生存説があって各地に維盛の伝説が存在します。
那智勝浦には色川郷に隠れ住んだという話が残り、吉野の野迫川の地には異なる話が伝わっています。一ノ谷の戦いの後、維盛は熊野別当湛増の下へ赴き援助を求めますが源氏優勢とみた湛増は援助を断り維盛に自らの娘を娶らせた後に匿ったとされます。湛増の守護を受けた維盛は平氏追討の手を逃れつつ熊野山中を転々とし、野迫川村の平の地にて生涯を終えたと。
平氏から多大の恩顧を受けていた湛増の計らいだったのでしょうか。熊野は源平時代の逸話が多く残る地であり、壮絶な信仰を今に伝える場所でした。
平維盛と平時子の供養塔がある「補陀洛山寺」
那智駅から那智大社までの間にある那智勝浦古座川線沿い。
駐車場あり。
真隣が熊野三所大神社。
どこが入り口かよくわからないけど、本堂、観音像、補陀洛渡海記念碑、補陀洛渡海に行く船がある。本堂裏の山の中腹に補陀洛渡海に行った20名ほどのお墓と平維盛と平時子の供養塔。
御朱印は本堂でいただける。
補陀洛渡海とは、那智の浜からちょっとの食糧を積んで生きたまま船に乗って、釘で打ち付けて出れないようにした状態で海の彼方にあると信じられた観音浄土を目指す。その出発点。
今とは感覚が違うけど補陀洛渡海は本当意味わからん。
平維盛も補陀洛渡海を行ったとされ石碑に名前が載っておりお墓もある。だが、入水せず紀伊半島に隠れたとか色々な説がある。時子は知らん。
本堂
補陀落海用の船。結構凝った装飾
石碑。寿永三年(1184年)に維盛の名前がある。
本堂裏から供養塔までの道。山道だけど5分で着く。
維盛供養塔とか
補陀落上人のお墓
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