けたじんじゃ
気多神社のお参りの記録一覧
越中国一宮 気多神社 気は旧字体です。
主祭神は大己貴命と奴奈加波比売命。
配神は菊理媛命と事代主命。
私はJR氷見線の越中国分駅から15分程歩いて行きました。勾配のある石段を上がりますと富山湾が一望できます。
皆様気になる御朱印ですが、基本的には書置きのようです。私が伺ったときは社務所の方がいらっしゃってお書き入れして頂けるかお聞きしたところ、快諾して頂き拝受できました。感謝。
徒歩10分程のところにバス停がありますので高岡駅行きで帰りました。ただし、本数があまりありませんのでご注意ください。ほとんどの方は車で行かれるとは思いますが、、、ちなみに駐車場もあります。
拝殿
本殿
富山湾一望できます
立山室堂から雄山神社峰本社参拝前に気多(けた)神社を参拝しました。
室堂の雷鳥荘は二ヶ月前に予約が完了していましたがケーブルカーと高原バスのWEBキップを予約するのを忘れていて予約を入れた時には14時しか空いてなくて9月16日は、雷鳥荘に宿泊だけして翌日に雄山神社峰本社に行くことにしました。
雷鳥荘宿泊は、朝一番で雄山神社峰本社に行き御朱印対応後に最高峰の大汝山(3015m)と富士ノ折立(2999m)を巡り日本百名山の立山連峰を堪能し、雷鳥荘に泊まって温泉を楽しもうかと思ってました。WEBキップの関係で幻の山旅となってしまいました。
気多神社(気多神社HPより)
・732年(天平4年)能登国一宮の気多大社より御分霊を勧請され、氣多大神(けたのおおかみ)として御鎮座たまわり越中国一宮 氣多神社となる。
757年(天平宝字元年)の創建は、社伝によると越中より能登国が分立した後、能登にある氣多大社を現在地に勧請したものといわれている。
一説によると718年(養老2年)に僧行基が開基したとも言われています。
氣多神社の清水『富山の名水』
神社創建前から湧き出る(神事の水・みそぎの水)
気多神社の手水舎
手水舎
気多神社の社号標と石段参道
(手前左側に駐車場あり)
気多神社の鳥居
鳥居右側にある
『高志のみはらし』
『高志のみはらし』からの景観
神馬
気多神社の御由緒
御神木と拝殿
気多神社の拝殿
左側の狛犬
右側の狛犬
拝殿の扁額
社務所の案内図
拝殿の内陣
気多神社の本殿
『国の重要文化財』
拝殿右側の参集殿
気多神社の御興堂
大伴神社の社号標
大伴神社(国司の大伴家茂を祀る)・万葉集の歌人
気多神社の拝受所
気多神社の御朱印
(社務所兼宮司様宅で対応)
【大小2種類の御朱印が社務所の小窓を開けると置いてある】
過去参拝記録(令和6年6月)
越中一之宮めぐり3社目は気多神社へ。
駐車場から参道をひたすら登ります。景色はいいけど疲れました。
御朱印は駐車場よりさらに下の社務所で。書き置きでした。
手水 駐車場から下の社務所へ向かう道沿いにあります。
どうやって飲めばいいんだろう・・・
由緒
本殿への石段
ひたすら登る
見えた
本殿の由緒 (駐車場脇にあります)
ご神木
神馬
越中総社跡伝承地
気多の杜
高志のみはらし から見た富山湾と北アルプス
参拝記念⛩️
越中国一之宮 気多神社
御祭神 祭神 大己貴命・奴奈加波比賣命
由緒
気多神社(けた じんじゃ)は、養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられています。また天平年間(757~764年)に越中一ノ宮として能登一丿宮の気多大社から勧請したとも言われています。なお、富山県内には気多神社を含めて「越中一ノ宮」を称している神社が4ヶ所(雄山神社・気多神社・射水神社・高瀬神社)あります。
天文年間(1532~1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558~1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿と云われています。構造は、三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きで軒は二重繁垂木です。斗キョウは和様の三つ斗で、棟下の両側面柱の上は舟肘木を用いています。向拝斗キョウは同じ三つ斗で、正面虹梁上には蟇股(かえるまた)があります。向拝柱および前面第一列の方柱を用い、他の柱は全て円柱となっています。
正面三面および両側面は吹き通しで、意匠は簡易なつくりですが木割が大きく全体に雄大な風格の本殿で室町時代の特徴を見ることが出来ます。
この参道の階段を上った正面が拝殿で、その後方に本殿(国指定重要文化財)があります。本殿の近くまでは行けませんが、拝殿の左手に回り込めば比較的よく見えます。階段上部左側の大きな杉の木は気多神社の御神木です。
(気多神社HPより)
石段を登った先に拝殿と本殿がありました。
参道の途中には富山湾を一望出来る場所もあり、気多神社が地域を守ってる感を体感してきました😊
御朱印は駐車場の下に社務所があり書置きのものがありました。
サイズも2種類用意されていました🙏
御朱印
社号碑
由緒
鳥居
神馬
狛犬
拝殿
本殿
御輿堂
大伴神社
清泉
射水神社の次は、同じく越中国一宮氣多神社に参拝に行ってきました。
あまり人気は無かったので、ゆっくり境内を散策しながら、お詣りをする事が出来ました。やはりこの辺も能登地震の影響があったみたいで、灯籠が倒壊してました。地震の怖さを目の当たりにしました。何体か石灯籠が倒壊してました。
残念ながら御朱印は書き置きでした。
富山の名水氣多神社の清泉
汲んで帰りました。
神社参道階段
最初の鳥居
由緒書き
地震の影響か倒壊してました。
狛犬
狛犬
本殿由緒書き
拝殿
拝殿
本殿
略史
大伴神社
大伴神社
狛犬
狛犬
狛犬
狛犬
御輿堂
参道
倒壊してました。
出張先での仕事が早く終わったので、気多神社さんにおまいりに行きました。
ここの近くには7年7ヶ月前にも来たことがあるのですが、気多神社さんにおまいりに行くのは初めてでした。
他に全く人がおらず、大変厳かな雰囲気の中、ゆっくりとおまいりできました。
気多神社近くの雨晴海岸には、7年7ヶ月ぶりで2回目の来訪です。
前に来た時は、富山湾の向こうに雪を被った立山連峰がとてもきれいに見えましたが、今回は雲がかかっていて全く見えず残念でした。
書き置きの御朱印をいただきました。
[高岡御朱印巡り2]
木々に囲まれた静かな神社さん。
鳥居をくぐると空気感が変わります☘️
綺麗で気持ちの良い神社さんですね😊
越中国一ノ宮
祭神 大己貴命・奴奈加波比売命
ご利益 良縁、復縁
大伴家持が祀られた、大伴神社が境内にあした。
神社下の駐車場に停めましたが、上にも駐車場がありました。
御朱印は神社下の社務所に大小の書き置き御朱印が置いてあります。
階段を上がっていきます
鳥居⛩
御神馬
もう少し階段を上がった先に拝殿
狛犬さん
狛犬さんと御神木
拝殿
本殿
大伴神社⛩
雷⚡️が落ちたのかな?
御朱印
【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
気多神社(けた~)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社で、越中國一之宮(※)。旧社格は県社。祭神は、大己貴命、奴奈加波比売命。本殿は国指定の重要文化財。
社伝によると、奈良時代の717年に祭神を勧請し創建とある。しかし通説では『式内社調査報告書』などに記載される通り、757年に越中国から能登国を分立する際に、能登国の気多大社から分霊を勧請したものと考えられている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 気多神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では小、「九条本」等では名神大)。のち射水神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であったが、射水神社が無力の間に当社が一宮になったと記載されている。
中世以降、別当寺である慶高寺とともに神仏習合の形で発展し、寿永年間(1182年~1185年)には木曾義仲の兵火、天文年間(1532年~1555年)の上杉謙信の兵火で伽藍や社殿を焼失したが、その度に再建されている。安土桃山時代に検地で社領が召し上げられ荒廃し堂塔大破するも、加賀藩主・前田家の庇護を受け、1645年には加賀藩3代藩主・前田利常により社殿が修復され、供田を寄付されている。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR氷見線・越中国分駅の南西1kmのなだらか丘の上にある。当社の東方、丘の下には越中国分寺跡があり、当社の西方、社殿の背後には里山展望台がある。森の一部が境内のようになっていて、境内の神聖な空気感が非常に良い。境内のアップダウンは激しくはなく、社殿周りだけが一段高くなっている。立地としては一宮と称されることがあるのは納得だが、他の一宮のような豪壮な感じはしない。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、富山県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の昼ごろで、我々以外にも家族連れや夫婦連れなど、割と多くの参拝者が訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
境内南東端入口にある<社号標>。
社号標に至るまでの公道脇にある<手水舎>。
入口の階段を登ると<鳥居>。この後、社殿前まで平坦な参道・境内が続く。
社殿は一段高いところにある。
階段を登って<拝殿>全景。横長なのが特徴。
階段を登った左側にある<狛犬>。微笑みを湛えたような独特な表情。(o^―^o)
階段を登った右側にある<狛犬>。材質は黄色っぽい独特な色合い。
拝殿に向かって右手にある<参集殿>。
<拝殿>正面。扁額は普通に「気多神社」。
<拝殿>内部。採光の良い幣殿の奥に本殿が見える。
拝殿後ろの<本殿>。戦国時代、永禄年間(1558~1570)の再建。三間社流造、向拝一間、杮葺。美しい佇まい。国指定の重要文化財。
社殿の左方向にある<御輿堂>。
御輿堂の近くにある<拝受所>。もう使われていないみたい。
社殿の左方向にある<大伴神社>全景。『万葉集』を編纂し、越中国司として当地で223首もの歌を詠んだとされる大伴家持を祀る。
<大伴神社>の社殿。
大伴神社から下ったところにある<神馬>。
神馬の近くにある<大伴家持卿顕彰碑>。
参道を挟んで神馬と反対側にある<越中総社跡伝承地>。
越中総社跡伝承地の近くにある<祭器庫>。
境内入口近くまで戻って、参道左側にある<社務所>。御朱印はこちら。
境内入口近くからの景色。富山湾が見える。(^▽^)/
越中一宮の気多神社です。
いよいよお詣りします。
一の鳥居を潜ります。
長い参道を通り
階段を登ると
拝殿があります。
拝殿近影。
苔むして雰囲気は最高です。
御朱印は書き置きでした。
二上山の東麓の高台に位置し、南南東1Kmに国衙跡とされる古古府がある。また東南500mには国分寺跡とされる薬師堂があり、越中国の中心部に位置している。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、その一つ。国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。
社伝によれば、養老元年(717)、能登・気多大社からの勧請。
能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。
延喜式には、「名神大社」とあるが、写本によっては射水神社が名神大社となっており、混乱が見られる。
『白山記』には、二上(射水)と新気多が勢力争いをして、新気多が勝ち、一宮となったとあるらしい。
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