きしもじんどう (ほうみょうじ)|日蓮宗
鬼子母神堂 (法明寺)のお参りの記録一覧(3ページ目)
東京散歩。法明寺で少しお話してくださった際に、ここを真っ直ぐいくと鬼子母神堂がありますよ、と。はい、今からお参りさせていただく予定でした!と小学生のような勢いで答えて向かいました。
飛び地ですが、法明寺の境内です。
畳に上がって、御朱印を書いていただきます。正座で待つのもまた一興。
お宮参りやご祈祷のかたで賑わっていました。
そうそう、境内に駄菓子屋さん?が。古き良き東京です。
1日目の東京さんぽはここまで。
この後、タクシーに飛び乗り、本来の旅行の目的地、椿山荘へ。つばきさんそうと言って、タクシーの運転手さんに笑われました。ちんざんそうと読むそうです。
田舎もんばんざいだもん!
仁王像
狛犬さん:阿像
拝殿
御朱印: 鬼の字が少し違うんですね。知りませんでした。
ついでにちんざんそう。つばきさんそうではありません←くどい、笑
2019年G/Wチャリ旅初日、六つ目の参拝予定地、護国寺さんに向かう途中、素敵な参道に魅せられ鬼子母神堂さんを参拝。
見覚えのある街角と思って後で調べたら、「獣になれない私たち」というドラマのロケ地だとか。ドラマを楽しんでいたときには、場所まで調べていなかったが、行ってみたいと思っていた場所に期せずして巡り合える幸運。
さすが有名スポット、G/W旅程すべてを含め、こちらの人出が最高だったのでは。お稲荷さん、ご本堂の順に参拝。表参道ばかりでなく、他の方角の入り口も風情があり、お寺さんの魅力を存分に楽しめた。
大イチョウが色づく季節には、この日以上の参拝客でにぎわうことだろう。
鬼子母神堂は永禄4年(1561)に鬼子母神像が出現したことに始まる。天正6年(1578)、鬼子母神像が雑司ヶ谷の村人によって建てられた草堂に安置され、寛永2年(1625)には社殿の造営があり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。
鬼子母神像が託された法明寺塔頭の東陽坊は後に大行院となり、江戸時代を通じて鬼子母神堂は大行院が別当として管理した。鬼子母神堂には江戸時代前期より将軍の御成があり、鬼子母神の信仰は江戸時代を通じて武家から庶民に至るまで幅広く浸透し、大いに盛況を呈した。
鬼子母神堂は、近くにある日蓮宗法明寺の境外仏堂であり、明治維新時の神仏分離を免れた一例である。江戸時代は表参道に鳥居が立つ、雑司ケ谷村の総鎮守であったが、祭神が鬼子母神であったため、神仏分離の際に仏堂と判断された。
昭和35年(1960)2月13日付で東京都有形文化財に指定され、昭和54年(1979)に半解体修理が完了した。この際、拝殿は桟瓦の鍛葺から銅板の平葺(とち葺型)へ変更し、全体が銅板葺屋根となって、現在に至っている。
池袋へ用事で行った帰り、行ってみたお堂。
いつも近所まで行くことはあるけれども、場所的に行きづらい場所にあるので行く機会は無かったです。
折角だから行ってみようとてくてく歩いてお参りに行ってみました。
都電荒川線の雑司ヶ谷の駅からすぐのところにけやき並木のうっそうとした参道の先にあります。
ちなみにこの参道の途中に手塚治虫の下宿先(登録無形文化財)があります。(しかも現役。私道みたいなところを入るのでマップ見ながら入ることをお勧めする)
参道の先の本堂は素敵なまでの権現造りでした。よく看板見たら、国指定の重要文化財。。。確かに見応えかなり抜群で、柱や屋根の一つ一つが色々見飽きない。
想像以上に素敵なお堂にびっくりしつつもお参りし、お守りと御朱印を頂きました。
夕方のお堂が閉まる時間だったため、じっくり見ることはできなかったがいいお堂でした。
ここの辺りの住宅地は袋小路を囲むように家が建っていたり、その前の植木の手入れがきれいだったり、子供の声がぎゃんぎゃん響き、おっさん窓全開でテレビ眺めながら目が虚ろだったり、門塀のかげにちびにゃんこも居たりと、昔のご近所の姿を思い出す、すごくノスタルジックな東京を味わってしまった(*´ω`*)
そして帰り道、何かスピーカーで叫んでいる人がおると思ったら。。。これはアザーンだ(イスラム教のお祈りの時間を伝えるコール)。。。何てインターナショナルな(笑)。
都電のフリー切符片手に今度は行きたいなあ。
写真で見たことはあるものの、近くで見るとすごくいい権現造りのお堂。
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