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でんづういん|浄土宗無量山

伝通院のお参りの記録一覧
東京都 後楽園駅

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かおり
かおり
2025年09月21日(日)1761投稿

実を言うと、私がこのお寺を知ったのは、つい先日、歌手の橋幸夫さんの葬儀が執り行われていたのをテレビで視たからであった。
なんともまあ無知というか、俗物で恥ずかしい。

慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立。寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。

明治時代になると、廃仏毀釈により、お寺の規模そのものが小さくなっていった。

夏目漱石は若い頃に、この辺りに住んでおり、「こころ」にこのお寺が出て来る。

「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束(おぼつか)なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心(ごころ)から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。」
「先生と遺書」より

春日駅から白山駅から千駄木と文学散歩もなかなかいいなと感じるのであった。

このお寺の庭で、「いつでも夢を」を口ずさんでしまう恥を知らないお婆さんであった。

広い庭に百日紅の花のピンクが映えていた。
橋幸夫さんのご冥福をお祈りいたします。

秋どなり いつでも夢を お江戸かな

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ひでどらごん
ひでどらごん
2025年01月19日(日)1141投稿

傳通院(でんづういん)は、東京都文京区にある浄土宗の寺院で、正式名称を「無量山寿経寺 傳通院」といいます。その起源は1415年(応永22年)に遡り、浄土宗第7祖の了誉聖冏上人によって、小石川極楽水(現在の小石川4丁目)に小さな草庵として開創されました。当時は「無量山寿経寺」と呼ばれていました。

● 徳川家康と傳通院の発展
1602年(慶長7年)、徳川家康の生母・於大の方が75歳で逝去しました。その際、法名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」を授け、この寿経寺を菩提寺と定めたことで「傳通院」と呼ばれるようになりました。徳川家からの外護を受け、堂宇が整備されるとともに、寺の地位も高まりました。

● 徳川家ゆかりの墓所
傳通院の境内には、於大の方をはじめ、千姫(豊臣秀頼の妻で徳川秀忠の長女)など、徳川家にゆかりのある多くの女性の墓が設けられています。北側には徳川家の墓域が広がり、歴史的価値の高い廟所が点在しています。

● 教学の中心としての役割
1613年(慶長18年)、増上寺から学問僧300人が移り、傳通院は関東十八檀林の中でも上席の修行所となりました。最盛期には常時1000人以上の学僧が修行し、浄土宗教学の中心としての地位を確立しました。その後、明治時代には傳通院境内に浄土宗学本校(現・大正大学の前身)を移転し、教育活動の場としても重要な役割を果たしました。

● 大火と戦禍、そして再建
傳通院は、1721年(享保6年)、1725年(享保10年)、1908年(明治41年)の三度の大火や、第二次世界大戦での戦禍に見舞われました。戦後、復興が進み、1949年(昭和24年)に本堂が再建されました。その後も新本堂や観音堂などの整備がされました。

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