こんせんじ|高野山真言宗|亀光山(きこうざん)
金泉寺のお参りの記録一覧
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
3番 金泉寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
3番 金泉寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
3番 金泉寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
3番 金泉寺。
お遍路(逆打ち) 四国八十八巡礼。
3番 金泉寺。
憧れで始めた 四国八十八カ所霊場巡り 3番札所のお寺です。
山号は亀光山
院号は釈迦院
宗旨宗派は高野山真言宗
ご本尊は釈迦如来
です。
御朱印帳に載っているご真言とご詠歌は
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:極楽の宝の池を思えただ 黄金(こがね)の泉すみたたえたる
でした。
2番札所の極楽寺から 車だと5分ぐらいの近さです。
駐車場のすぐ横にある仁王門は朱塗りで くぐるとすぐに小さい橋(極楽橋)があります。
橋を渡ると鐘楼・慈母観音があります。
観音堂があり 修行大師像が立っています。
修行大師像はマストなのでしょう。
正面には本堂が建ち その左に護摩堂が 手前右手に大師堂があります。
帰ってきてから調べたら 境内で見落とした所がありました。
これは大失態。もう一度お参りしなければと思いました。
お参りした時間が少し遅かったからかも知れませんが 参拝者は少なかったです。
それとも3番札所だから?
少し残念な気持ちになり まあまあ近い4番札所にお参りするのは後日にしました。
金泉寺の由緒については
天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅願により行基が本尊を刻み 金光明寺と称したと言われます。
弘仁年間(810年 – 824年)に 空海(弘法大師)が訪れた際に 水不足解消のため井戸を掘り 黄金井の霊水が湧出したことから寺号を金泉寺としたそうです。
亀山法皇(天皇在位1259年 – 1274年)の信仰が厚く 京都の三十三間堂をまねた堂を建立 千躯の千手観音を祀ったと言われています。
また 背後の山を亀山と名付け山号を亀光山と改めました。
また 『源平盛衰記』には、元暦2年(1185年)に源義経が屋島に向かう途中本寺に立ち寄ったとの記載があります。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失しましたが 建物はその後再建されました。
境内からは奈良時代の瓦が出土しており 創建は寺伝のとおり奈良時代にさかのぼると推定されます。
とありました。
仁王門
極楽橋
手水舎
本堂
観音堂 源義経が屋島の戦いに行く前に戦勝祈願をしたと伝わります
修行大師像
太子堂
満願弁財天
俱利伽羅龍王 不動明王の化身だそうです
六地蔵尊
慈母観音像
鐘楼
帰り 淡路ハイウエイオアシスから 神戸明石方面を望む
【亀光山(きこうざん)釈迦院(しゃかいん)金泉寺(こんせんじ)】
本尊:釈迦如来
宗派:高野山真言宗
開基:行基菩薩
金泉寺は、第45代 聖武天皇(在位724-749)の勅願で行基菩薩が天平の頃に「金光明寺(こんこうみょうじ)」として開いたとされる。その後、弘仁の頃(810-824)に弘法大師(774-835)が四国を巡教した際、日照りに苦しむ村人のために井戸を掘ったところ霊水が湧き出て、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされたことから金泉寺と改められた。その後、第90代 亀山天皇(在位1260-1274)が法皇として金泉寺に滞在した際、京都の三十三間堂にならった堂舎を建立した。その由来で山号は亀光山となっている。
【03_T.Hamada's view】
観音堂
【03_黄金の井戸】
井戸を覗いて顔がはっきりと見えれば長寿、ぼやけていると短命と言い伝えられる「黄金の井戸」は、弘法大師が掘ったとされる。(四国霊場開創1200年記念絵はがき)
【03_黄金の井戸】
大師堂奥の黄金地蔵尊の中に残っている。
【03_本堂】
【03_大師堂】
【03_仁王門】
【03_仁王阿形像】
【03_仁王吽形像】
【03_獅子の手水舎】
【03_倶利伽羅龍王(くりからりゅうおう)】
不動明王の化身とされる龍王
【03_納経所前の庭園】
【03_弁慶の力石】
源平合戦の際には、屋島に向かう途中に源義経が戦勝開運の祈願のため立ち寄ったとされ、そのとき弁慶が力試しに持ち上げた「弁慶石」が納経所前の庭園に残っている。この伝説のもと、開運祈願で訪れる参拝者が多い。
参拝日 令和5年4月22日
四国八十八ヶ所霊場第三番の御朱印を頂きました
仁王門
本堂
太師堂
倶利伽羅龍王
八角観音堂
多宝塔
鐘楼
弁慶の力石
四国霊場八十八ヶ所納経帳のページ
四国八十八ヶ所霊場第三番の御朱印
【四国八十八ヶ所札所巡り③】
金泉寺(こんせんじ)は、徳島県板野郡板野町大寺字亀山下にある高野山真言宗の寺院。山号は亀光山(きこうざん)、院号は釈迦院(しゃかいん)。本尊は釈迦如来。四国八十八ヶ所3番札所。
寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基菩薩が寺塔を建立、「金光明寺」と命名されたのが始まり。平安時代の弘仁年間(810年~824年)に弘法大師が四国巡教の際、日照りに苦しむ民のために井戸を掘り、霊水が湧いたことから寺号を「金泉寺」と改称した。『源平盛衰記』には、源義経が屋島に向かう途中で当寺に立ち寄り戦勝開運祈願をしたとの記載がある。鎌倉時代には亀山法皇が弘法大師を篤く信仰され各地の霊蹟を巡拝し当寺にもしばらく滞在した。この頃、京都の三十三間堂に倣い1000の千手観音像を祀る堂舎が建立され背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改められた。以来、皇室との縁が深く、本堂裏に長慶天皇(在位1368年~1383年)の御陵がある。
当寺は、JR高徳線・板野駅の北東500mあまりの、主要道路・県道12号線から少し逸れた丘の南麓にある。2番札所の極楽寺からは道のり2.7km。境内は広いが、伽藍がコンパクトに集まっていて参拝しやすい。楼門、本堂、大師堂は重厚で大きく、鮮やかな彩色の観音堂が印象的。
今回は、四国八十八ヶ所札所であることから参拝した。参拝時は休日の午後で、まだ3番札所ということもあり、参拝者が多く訪れていた。
境内南端入口の<仁王門>。
左側の<吽形仁王像>。目力が抜群。
右側の<阿形仁王像>。
仁王門をくぐる。
仁王門をくぐると、しばらく参道が伸びる。
<ごくらくばし>を渡って本堂へ。
橋を渡った左手にある<水屋>。
水屋の裏手にある<鐘楼>。
水屋前から<本堂>方向を望む。右が<本堂>、左が<不動堂>。
<本堂>全景。
<本堂>から振り返って境内全景。
境内東端にある<大師堂>。
<大師堂>正面。
<大師堂>内部。
<大師堂>から振り返って境内全景。
本堂の南方正面にある<観音堂>。八角形の特徴的な造形。
<観音堂>内部。
境内北東部にある<倶利伽羅龍王>。
倶利伽羅龍王の奥にある<弁天社>
境内北東部にある<六地蔵尊>。
本堂裏手の小高い場所にある<多宝塔>。
多宝塔の右手にある<忠霊塔>。
鐘楼近くの境内西側に戻って<納経所>。御朱印はこちら。
納経所の近くにある<弁慶の力石>。弁慶が力試しに持ち上げたと言われる石。
最後に<本堂>全景。ほぼすべての伽藍が平らな場所に集まっているので廻りやすい。(^▽^)/
四国88所巡礼で参拝。3番札所。
本尊は釈迦如来。
聖武天皇の勅願で、僧・行基が開いたとされる。長宗我部元親による兵火で大師堂以外の建物を焼失した。
本堂
本堂
本堂
大師堂
俱利伽羅龍王
観音堂
多宝塔
多宝塔
山門
四国八十八箇所お遍路3番札所、亀光山釈迦院こんせんじ。行基菩薩開基。ご本尊は行基菩薩作の釈迦如来。元は金光明寺と言うが、弘法大師が黄金の霊水のでる井戸を掘ったことから金泉寺と名を改めた。
源平合戦のさい義経が屋島に進軍中滞在し勝運祈願した。この時弁慶が持ち上げた石。
第三番亀光山 金泉寺 釈迦院
『きこうざん こんせんじ しゃかいん』
のぅまく、さんまんだ、ぼだなん、ばく
まだまだ巡礼の手際が良くないのでドタバタな感じ…何かを忘れる😅
山門
自販機が雰囲気を…
手水 この時期はできませんね
早くコロナ終息して〜
本堂
紅もいいなぁ
大師堂
ありがとうございました🙇🏻
納経中 パチリ
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