さいみょうじ|真言宗豊山派|独鈷山
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3年半ぶりのおまいり。
前回のお参りはコロナ緊急事態宣言下にお参りする人が少ないと踏んで、坂東33観音巡りの一環でお参り。
当時は書入れ日等を調べたり、どんな御朱印があるのか調べずにお参りしていたので、1回目はご本尊様のみ御朱印をいただき、家に戻ってから閻魔様御朱印があることを知り、翌日に再訪。
御朱印をお願いするも、書入れ対応日でなく書き手さんがいらっしゃらないとのことで、断念しかかったところに、見習い書き手様がたまたまいらっしゃり、良ければと書入れしていただいたというエピソードがありました。
今回は、電話で確認したところ、本日は当日に書入れできるとのことで、お参り貴重頂きました。
受付にて書き手から「こちらのお参りは初めてですか?」とお尋ねがあったので、先のエピソードをお伝えしたところ、「コロナ宣言中なら私が書いたね!」とのこと。
どおりで電話した際の声に聞き覚えがあったはずでした。
今回は、本堂内・内陣ともに制限なしで拝観できるとのことで内陣も見せていただきました。
2回目の閻魔様御朱印とのことで、お言葉変えてありますとのことでした。
いまは、季節の閻魔様御朱印や御朱印帳の種類も増えていて、再訪する楽しみができました。


栃木県 芳賀郡 益子町 大字 益子 に境内を構える、獨鈷山 西明寺、何度か参拝してますが、2023に 坂東三十三観音霊場、下野七福神にて初参拝致しました、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 獨鈷山、院号は 善門院、寺号は 西明寺、宗旨 宗派は 真言宗 豊山派、ご本尊は 十一面観世音菩薩、坂東三十三観音霊場 第二十番札所 益子観音 日本百観音 の一つ、下野三十三観音霊場 第十三番札所、下野七福神 布袋尊、
西明寺は奈良時代の天平9年(737)に高僧として知られた行基菩薩が当地に巡錫で訪れた際、自ら十一面観音像を彫刻すると大旦那となった紀有麻呂が一宇を設けて本尊として祭ったのが始まりと伝えられています。紀有麻呂がどの様な人物かは判りませんが、中世、長く当地を支配し西明寺を庇護した益子氏は大納言紀長谷雄、又は征東大将軍紀古佐美、又は土佐守紀貫之を遠祖とする氏族である事から、由緒を制作する際に益子氏関係者が開山に関わった事にしたのかも知れません。
その後、天平宝字元年(757)に唐僧恵林によって境内が整備され、さらに真言宗の開祖である弘法大師空海が入山し当寺の基礎が固まると寺運が隆盛し延暦元年(782)には境内に48の堂宇が建ち並び12坊を擁する大寺院となりました。平安時代後期の康平年間(1058~1065年)に益子氏の初代となる益子正隆(紀貞隆の次男)が高舘城(西明寺城)を築くと、城郭は西明寺の境内を取り込んだ事から、以後、歴代益子氏が篤く庇護するようになりました。
中世に入ると益子氏は宇都宮城(栃木県宇都宮市)の城主である宇都宮家に従うようになった事から、西明寺は宇都宮家からも庇護を受けるようになり、承元3年(1209)には宇都宮景房により本堂が改修され、建長7年(1249)には鎌倉幕府5代執権北條時頼が境内の堂宇を再建し、時頼の戒名「最明寺道崇」に因み寺号を益子寺から西明寺に改めています。南北朝時代、益子氏は主家である宇都宮家と共に南朝方として行動し、居城である高舘城は関城・真壁城・大宝城・伊佐城・中郡城と共に南朝方の関東六城の1つに数えられ拠点として機能しました。その為、北朝方から攻撃目標の1つに目され、正平6年(1351)に侵攻を受け落城、西明寺もその兵火により焼失しています。応永元年(1394)に益子勝直が再興を果たし、明応元年(1492)には楼門、天文7年(1538)には益子家宗の寄進により三重塔が造営されています。戦国時代になると益子氏は宇都宮家からの独立を画策したものの宇都宮勢に敗れ、さらに、天正11年(1583)に敵対関係にあった笠間氏に敗れた事で大名家としては没落し、一族は常陸国の大名である佐竹氏を頼り8家が家臣として仕えています。西明寺は庇護者を失いますが、江戸時代に入ると幕府から庇護を受け、朱印地を認められています。西明寺の境内には数々の栃木県指定史跡、文化財が有り見所が沢山あります

閻魔さまのお堂があります。
閻魔さまといえば、どうしても小野篁(おののたかむら)が思い出されます。
嵯峨天皇に仕えた平安初期の官僚で、文武両道優れた方だったそうです。ただ、奇妙な行動をとる方で、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁で閻魔さまのもとで裁判の補佐をしていたという伝説があります。ここまでくると、ワクワク感半端ないのですが、最近、違う面を知ることに。つまり、遣唐副使に任ぜられたのに、ある出来事から乗船拒否したり、無類の母親考行だったり、金銭面では、無頓着だったり。
「歴史の時間」習わなかった方ですが、私の中では、気になる方です。どういういきさつで閻魔さまの補佐をなさっていたのか、聞きたいのです。🤭






今回は真岡・益子方面へ。
まずは益子の坂東三十三観音第20番札所の西明寺にてご本尊の十一面観音の御朱印を頂きました。
そして、有名な笑う閻魔様の御朱印を頂きました。
念願だったので頂いて感激しました。
もちろん、見開きを拝受いたしました。時間も確認していただきました。
閻魔様の御朱印帳をいただきました。
いろいろ種類がありましたが、黒字に炎の閻魔様が素敵ですね。
西明寺は益子町の
別名益子観音、山号は独鈷山で真言宗豊山派のお寺です。
本堂への階段は前日に雨が降って濡れていたので滑りそうでした。
楼門は入母屋造茅葺きの楼門で1492年の建立です。
国の重要文化財に指定されています。
三重塔は1539年の建立です。
板屋根銅板葺きです。
こちらも国の重要文化財に指定されています。
閻魔堂は茅葺の屋根で笑い閻魔大王が安置されています。
鐘楼堂は宝形造り茅葺き2層の建物です。
本堂の厨子は国の重要文化財に指定されています。
ご本尊は十一面観音です。
天平年間に行基が開山したとされています。
楼門と三重塔は調和が取れて美しいです。
朝最初に参拝したのでとても清々しい気持ちになりました。
弘法大師堂・慈母観音像などありました。
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正式名:獨鈷山普門院西明寺
栃木県芳賀郡益子町にある獨鈷山の南斜面の中腹に立つ真言宗豊山派の寺院である。
天平年間(729~749)行基の開山、紀有麻呂の開基によって創建されたと伝えられる。
その後、兵火などによりたびたび焼失したが、宇都宮氏・益子氏の援助により、そのつど再建され、江戸時代には幕府から朱印状が与えられた。
益子という氏は「土佐日記」で知られる紀貫之の後代、紀一族が益子に移り住み、西明寺の地「権現平」に紀貫之を祀ったことから始まる。その紀貫之夫妻の像は現在、西明寺本堂の奥に安置されている。
また、西明寺には本堂厨子、三重塔、楼門の国指定重要文化財をはじめ、弘法大師堂、鐘桜堂、そしてユニークな「笑い閻魔」で親しまれている閻魔堂がある。
栃木県のおすすめ2選🎏

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