ふるみねじんじゃ
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古峯神社ではいただけません
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古峯神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月05日(金)
参拝:2024年3月吉日
栃木県鹿沼市草久に鎮座する古峯神社、2024.3に参拝致しました、どの様な神社か引用を用いて調べて見ました、主祭神は日本武尊、社格等は無格社、創建年は不明、例祭は5月27日。天狗が祭神の使いとされ、「天狗の社」としても知られる、神仏習合の時代には日光修験の道場であり、火伏や豊作・村内安全の神として庶民の崇敬を集めるなど、古峯信仰(ふるみねしんこう)の中心となった。創建は「今を去る1300余年の昔」という『下野神社沿革史』(明治35年=1902年)に載せる社伝によれば、藤原隼人という人物が京都より当地に移って邸内に日本武尊を祀ったのが神社の創建とされており、この隼人が石原を家名として祠官石原家の祖先になったという、隼人は日本武尊に仕えた家臣であったともいう伝承もある、日本武尊が東征の折に着用した服の片袖を神体にしていたというが、明治期にはすでに失われ、口承のみになっている、日光山開山の祖である勝道上人は、古峯ヶ原深山巴の宿で3年間の修行ののちに天応2年(782年)に男体山に登ったとされる、これにより「日光発祥の地」とも呼ばれるといい、山岳信仰の霊地であった、この由緒に基づき、神仏が習合していた時代には、日光全山26院80坊の僧侶(日光修験)は古峯ヶ原で修業をするならわしであり、「華供峯」は日光入峯の重要な修行であった[8]。『下野神社沿革史』によれば、日光へ赴く修行僧が石原家に投宿して雪中の案内を行い、以後恒例となった、日光にあった金剛童子の像を日本武尊とともに祀り、金剛峯権現(こんごうみねごんげん)と呼んだという、明治初年の神仏分離に伴って仏具は撤去され(金剛童子像は日光に還仏したという、祖先石原隼人が祀った日本武尊のみを祭神として「古峯神社」と号したという、1966年(昭和41年)に古峯神社と日光山興雲律院の共催により、華供峯が「巴祭」として復興されている。
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