まごたろうじんじゃ
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ありません | |
駐車場 | なし |
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藤姓足利氏3代当主、藤原秀郷7代孫の藤原(足利)家綱を祀る神社。
「怪力士家綱の伝説」が伝わる神社です。
時は後白河天皇の御世。
家綱は武勇に優れた体格の立派な武士で、御所警固のために都に上洛しました。
ところが何をやっても優れていた家綱は、嫉妬した同僚の小野寺民部の讒言によって九州の大宰府に左遷されてしまいます。
九州で、家綱は同じ境遇であった菅原道真を思い、無実の罪が晴れるよう天満宮に毎日祈りました。
その頃、朝鮮から毎年の朝貢の使者が日本にやってきましたが、その年は貢物ではなく3人の力士を連れてきて
「相撲で勝負ニダ! ウリが勝ったら来年からは日本が貢物を持ってくるニダ!」と宣言。
3人の朝鮮力士は「我慢(がまん)」「蛇慢(じゃまん)」「岩幕(がんまく)」といって、3人とも400kgもある岩を持ち上げて叩きつけると、岩が地面に埋まってしまうという怪力の持ち主。
都にはこの三力士にかなう者がおらず、家綱に白羽の矢が立ち都に呼び戻されて相撲を取ることに。
挑発に乗り三力士と一度に戦うことになってしまった家綱ですが、3人とも一瞬で投げ飛ばし勝利!
この手柄により無実の罪が晴れ、家綱は故郷の佐野に帰ることができました。めでたしめでたし。
格闘漫画の王道のようなストーリー、朝鮮三力士のネーミングとか設定も実に厨二テイスト溢れててこの伝説大好きですwww
日本人はやはり平安時代から未来に生きてたんですねw
御朱印は近くの「みかわや」という和菓子屋さんでいただけます
直筆でお店のご主人が目の前で書いてくれます
神社自体は街中にある小社
この辺近くに駐車場がないので門前に止めてスピード参拝(*_*)
みかわやさんも駐車場はありませんが、そちらは店公認で前に路駐可です
右手に摂社が2つ
社殿
みかわやさんへの地図
みかわやさんで売ってる七福神人形焼き
どら焼
他に「さの丸もなか」とかありましたw
歴史
天慶の乱に平将門を討った田原藤太秀郷により、天命の春日ノ岡(現在の城山公園)に建てられた寺の守護神として祀られました。しかし、寺も神社も天保・平治の乱に兵火に遭い、荒廃してしまいました。その後、文永年間に寺は俊海上人によって再興され、同じ時期に神社もまた修復されましたが、その再建に力を尽くしたのが孫太郎と称していた秀郷八代の子孫に当たる足利家綱でした。里人達はそれを大変に徳としまして、それから後神社の名を「孫太郎明神」と誰いうとなく呼びならわし、いよいよ崇敬の念を篤くしたとされています。
慶長七年、唐沢山城主・佐野修理太夫信吉は、春日ノ岡に新しく城を築くこととし、天命の街づくりに着手しました。このために従来あった寺は安蘇川(現在の秋山川)左岸に城下の防備を兼ねて移されました。この寺が厄除け大師で知られる春日山岡山惣宗寺であります。しかし、稲荷社は新たな春日岡城(現在の城山公園)の守護神としてそのまま鎮座されました。その往時、神徳のあらたかな社として参詣者は日々市をなすほどの賑わいをみせたと伝え残されています。
やがて時移り大正六年三月、関係者特に伊賀町有志の尽力により城山公園に鎮座する孫太郎神社を現孫太郎公園内に遷座し、町内鎮守の神として尊崇されて参りました。その後平成七年十月に駅南土地区画整理事業に伴い現在地に遷宮、今に至っております。
また春日岡城、唐沢山城の守護神であるとして北向きに構える社であられることは、全国でも稀な存在として注目されてもおります。
また、駅南区画整理事業で消滅しましたが、遷宮前は境内の北東側に沿ってあまり広くない道路が大きく弧を描いていました。この道路は安蘇馬車鉄道の線路の跡であります。つまり孫太郎神社は、佐野における近代遺産と呼べる線路跡に沿って建立されたため、西北の向きとなったとも云われております。
現在判明している同名の神社としては、他に奈良・薬師寺境内並びに京都・私庭園内に二社が確認されております。
(神社縁起案内紙より)
名称 | 孫太郎神社 |
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読み方 | まごたろうじんじゃ |
通称 | 孫太郎様 |
トイレ | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
詳細情報
ご祭神 | 主祭神:豊受姫命 配神:宇賀魂神、猿田彦神、豊城入彦神 |
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ご由緒 | 天慶の乱に平将門を討った田原藤太秀郷により、天命の春日ノ岡(現在の城山公園)に建てられた寺の守護神として祀られました。しかし、寺も神社も天保・平治の乱に兵火に遭い、荒廃してしまいました。その後、文永年間に寺は俊海上人によって再興され、同じ時期に神社もまた修復されましたが、その再建に力を尽くしたのが孫太郎と称していた秀郷八代の子孫に当たる足利家綱でした。里人達はそれを大変に徳としまして、それから後神社の名を「孫太郎明神」と誰いうとなく呼びならわし、いよいよ崇敬の念を篤くしたとされています。
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体験 | 伝説 |
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