御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方
【サポーター特典】幸せと健康を毎月ご祈願
100年後に神社お寺を残せる未来へ

あかみじょうのほこらあと

赤見城の祠跡
栃木県 富田駅

赤見城の祠跡について

赤見城の土塁の北西角にあった祠跡

おすすめの投稿

くし
くし
2025年02月20日(木) 17時57分15秒
1703投稿

星宮神社の縁起でもある赤見城跡も見ていくことにしました🏯
鎌倉時代~戦国時代までの佐野・足利の歴史や寺社縁起を語るうえでも重要な城なので、ぜひとも取り上げたかったのですが、例によって寺社とどうこじつけるか悩む✏️💫w
当初は南西300mほどの所で見つけたつまんねー薬師堂とコラボさせようと思ったのですが(さらに調べたところ城の南西に隣接する公民館につまんねー石祠もあったw)
城の北西角に祠跡のようなものを発見💡 手水もあるしこれならイケる👍と城ごと登録しました🏯✏️www

ご覧のように高い土塁や堀跡などが非常に良好な状態で残ってる平城です🏯✨
ほぼ東西南北に沿った四角形のお城で、内部に寺社がなく手入れされてないことを除けば鑁阿寺にも引けを取らない❗・・・と思う😅w

城の北西の角に祠跡・手水・墓石か供養塔のようなものが建ってました。
何が祀られてたのかわかりませんが、墓石や手水には藤姓足利氏の家紋である大きな左三つ巴紋が刻まれてたので、築城者の足利俊綱公に関係する神様だったのかもしれません。

赤見氏家祖の戸賀崎義宗公についても調べてみました。三河国幡豆郡戸賀崎郷というのは現在の愛知県西尾市戸ケ崎、名鉄西尾線の桜町前駅の東側一帯にあたるようですね🔍️💡
神社は若宮八幡神社というのが一社だけで無人社のようですが、Google Mapの写真を見ると、きらびやか花御輿や御神楽の写真がありました🌸✨️
お寺は浄土真宗が二寺と、曹洞宗と浄土宗が一寺ずつ。特に曹洞宗の方の薬師寺というお寺が「戸ケ崎の善光寺」と呼ばれてるらしくて良さげでした😍

こういう関連情報を調べていて、今まで縁も所縁もなかった遠くの土地に思いを馳せる😊💭 これもこの趣味の醍醐味ですね👍 

赤見城の祠跡(栃木県)

城の南東角から土塁に上がることができます

赤見城の祠跡(栃木県)

案内碑は地図だけやたら詳細に描かれたもの🗺️💧
どこかに歴史の書かれた案内板もあるそうなんですが見つけられず💫 もしかして石碑の裏に書かれてた?

赤見城の祠跡(栃木県)

城内は数年前まで保育園として使われてました
そのため開発に飲まれず良い状態で残ったのかも

赤見城の祠跡(栃木県)

北東の角から
そういえばこの城、星宮神社とかで霊的守護みたいのも一応考慮してるようだが、鬼門・裏鬼門封じを意識したような寺社は特に見当たらず⛔👹❓️

赤見城の祠跡(栃木県)

北側の土塁

赤見城の祠跡(栃木県)

祠跡
宗教的遺構が残るのは鬼門の北東角ではなく北西角
星宮神社も南東方向にあり、どうもこの城は一般的な鬼門・裏鬼門とされる艮⇔坤ラインより、乾⇔巽ラインの方が重視されてたっぽい🐶🐗🐲🐍

赤見城の祠跡(栃木県)

手水
大きな左三つ巴紋と「祓盥」の文字

赤見城の祠跡(栃木県)

なぜか墓石も一基👻💧 赤見じゃなくて青木??🔴🔵 
調べたところ青木氏は藤原秀郷主要5氏の一つだそうです💡
戒名が最高ランクの院殿号なので、もしかしたら歴代の赤見城主どなたかの供養塔かもしれない

赤見城の祠跡(栃木県)

何か彫られた石が埋もれてる・・・

赤見城の祠跡(栃木県)

「拝六十」?なんのこっちゃ?( °д°)
上の石に彫られてるのは何か梵字のようにも見えますね❓️

赤見城の祠跡(栃木県)

北西の角

赤見城の祠跡(栃木県)

西側は外の土塁と堀跡がハッキリと残ってます✨

赤見城の祠跡(栃木県)

保育園も閉園してしまったし、いっそのこと遊具をそのまま再利用して城址公園化
保育園の建物は赤見・出流原地区の郷土資料館にでもすれば良いと思うんだが・・・何か大人の事情で難しいんだろうな💫

赤見城の祠跡(栃木県)

南西の角
裏鬼門の方向

赤見城の祠跡(栃木県)

かわらけの破片みたいのを発見💡

もっと読む
投稿をもっと見る|
1

写真

写真をもっと見る|
15

赤見城の祠跡の基本情報

住所

栃木県佐野市赤見町3572

行き方
アクセスを詳しく見る
名称

赤見城の祠跡

読み方

あかみじょうのほこらあと

詳細情報

ご祭神《主》不明
創建時代

不詳 城の築城は治承2年(1178年)

創始者

不詳 城の築城は足利俊綱

ご由緒

祠跡自体の由緒や祭神は不明。藤姓足利氏の家紋である左三つ巴紋の入った手水が残る。
同じく左三つ巴紋と「青木氏」と刻まれた墓石か供養塔も建っている。
青木氏は「藤原秀郷主要五氏」の筆頭で、秀郷第三子の藤原千国を祖とする一族らしい。

【赤見城の歴史】
足利俊綱(藤姓足利氏)が平安末期の治承2年(1178年)に築城。しかし俊綱は木曽義仲に呼応した志田義弘に味方したために源頼朝の軍勢に攻められ落城する。
その後、木曾義仲遺児の義高とも伝えられる岩崎義基が、佐野西部を与えられ赤見郷領主となる。
次に建久元年(1190年)、源姓足利氏の祖である源義康の曽孫で三河国幡豆郡戸賀崎郷を拠点としていた戸賀崎義宗が、宗族の足利庄進出に伴い下野国へと下向し赤見城を再建し入城。一説によると赤見城はこの時に義宗によって初めて築城されたとも云われる。
義宗の後は、その分流である荒川氏、次いで赤見氏と続いたとされる。 ただし戸賀崎氏および荒川氏の本貫はいずれも三河国にあり、両氏が成立するのは足利義氏が承久三年(1221)の承久の乱での軍功により三河守護に任じられてからのことであり、義宗築城説には疑問が残る。
また戸賀崎義宗は岩崎義基の家臣となり赤見城主となったとする説もあるが、これも年代がやや合わず、藤姓足利(佐野)氏と源姓足利氏との関係性、義基(義高)の出自などからも考え難い。
その後、赤見城主は荒川詮頼→荒川詮長→赤見仲村→赤見義重と続いている。このうち詮頼は、足利義詮家臣として石見守護を務めた人物である。
室町時代、古河公方 足利成氏と関東管領 上杉顕定の間で「享徳の乱」が勃発。
文明三年(1471)上杉顕定の家宰 長尾景信が、当時は古河公方の城であった赤見城を攻め落とし、城将として入っていた南式部大輔父子(成氏家臣)が討死。
永正十二年(1515)赤見六郎左衛門が城主となり佐野氏に仕え、以後は佐野氏の出城として対足利長尾氏への最前線となる。
永禄二年(1559)赤見伊賀守が佐野泰綱に反旗を翻したが城を攻め落とされ、佐竹氏を頼り常陸国へ逃亡するが、泰綱の子 昌綱の代に和睦が成立し赤見城に帰参。
昌綱の子 宗綱が討ち取られ、佐野家中は後継を巡り佐竹派と北条派に分かれ対立。北条派が優勢となり北条氏忠が養子入りし佐野家を継ぐが、赤見氏は天徳寺宝衍(佐野房綱)とともに強硬な反北条派として赤見城を拠点に抵抗。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡。中央に出て秀吉に仕えていた佐野房綱は佐野領を奪還する。その後、富田一白の五男 信種(信吉)を養子に迎え佐野家の家督を譲り、房綱は赤見城に隠居する。
江戸時代に入り、慶長十九年(1614)佐野信吉が改易され赤見城も廃城となった。

体験武将・サムライ
「みんなでつくる御朱印・神社お寺の検索サイト」という性質上、掲載されている情報の正確性は保証されませんので、必ず事前にご確認の上ご利用ください。
神社寺院のホームページが無料でかんたんに作れる!

この神社の神主様へ

公式アカウント(無料)にご登録いただくと、

ご自身の神社の情報を編集することができます。

無料登録して、参拝者が必要な情報を直接伝えてみませんか?

詳しくはこちら

ホトカミのデータについて

ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。

ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
行きたい
行った
お問い合わせ

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから

お問い合わせ