ふじさんひがしぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
富士山東口本宮 冨士浅間神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年09月18日(月)
参拝:2023年9月吉日
🌼東口本宮冨士浅間神社(ひがしぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)⛩️に参拝させて頂きました🙏🌸当社は、静岡県駿東郡小山町須走にある神社。旧社格は県社です。🌺全国にある浅間神社の一社で富士山須走口登山道の起点に鎮座します。🌿登記上の宗教法人名称は冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)で、須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)とも称されています。
💐2013年(平成25年)、富士山が世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された際、構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されて、登録名称は「冨士浅間神社」です。🍀平安時代初頭・延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行いました。💐それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
🌸江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。また、浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がっています。🌿特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し、農業が壊滅的な打撃を受けると御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められたとの事です。🌼明治維新後の国家神道の時代には、当初は村社の社格が定められたが、明治19年(1887年)に県社に昇格しました。
🌷2007年(平成19年)、御鎮座1200年の佳節を迎え、記念事業の一環として社務所2階には富士講や社宝等を展示する記念資料館が併設されました。🍀2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の1つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
🍁所在地: 静岡県駿東郡小山町須走126
💐2013年(平成25年)、富士山が世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録された際、構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されて、登録名称は「冨士浅間神社」です。🍀平安時代初頭・延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行いました。💐それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。
🌸江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。また、浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がっています。🌿特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し、農業が壊滅的な打撃を受けると御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まり、これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められたとの事です。🌼明治維新後の国家神道の時代には、当初は村社の社格が定められたが、明治19年(1887年)に県社に昇格しました。
🌷2007年(平成19年)、御鎮座1200年の佳節を迎え、記念事業の一環として社務所2階には富士講や社宝等を展示する記念資料館が併設されました。🍀2013年(平成25年)、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録された際には、構成資産の1つとして登録された。合わせて、須走口登山道も別に構成資産として登録された。
🍁所在地: 静岡県駿東郡小山町須走126
すてき
投稿者のプロフィール
🌷日向ぼっこ☀️🐇894投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。