関八州総鎮護 伊豆山神社由緒
社格:旧国幣小社
例祭:四月十五日(定日)
伊豆山神社はかつて「伊豆大権現」「走湯大権現」「伊豆御宮」などと称され、略して「走湯山」「伊豆山」と呼ばれ親しまれてきました。強運守護、福徳和合、縁結び、天下取りの神様で、境内は歌枕に名高い「伊豆の御山」子恋の森の一部になります。
祭祀の始まりは遥か上古に遡り、本殿に祀られている木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が応神天皇の御代に相模国大磯に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られたという伊豆大神の御神影をあらわしています。
その神威の源は湧き出づる霊湯「走り湯」です。走湯大権現はこれを神格化した呼び名で、伊豆の国名は湯出づる神である当社の神徳に由来します。
神威の被るところは、沖合に浮かぶ初島をはじめとする伊豆の島々、伊豆半島、共に二所といわれた箱根や富士山に及びます。後白河院御撰『梁塵秘抄』に「四方の霊験所」のひとつと謳われたように、平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せ、顕密神道を学ぶ名高い道場となりました。熊野信仰とも結びつき、全国に末社が祀られています。
平安時代後期、伊豆山で修行して富士登拝を重ね、後に富士上人と呼ばれた末代上人は、鳥羽上皇はじめ貴族と民衆を勧進し、富士山に一切経を奉納する偉業を達成しました。伊豆山から富士につながる修行の道は、その後平治の乱によって伊豆国蛭ヶ小島に配流された源頼朝が北条政子と共に当社に深い信仰を寄せ、当社の加護のもとに平家を打倒し、鎌倉幕府を樹立して征夷大将軍となるに至る、いわば東国王権神話とも呼ぶべき歴史の舞台となります。箱根神社と共に鎌倉将軍の参詣する二所詣の聖地となった当社はますますの威光を輝かしました。この時に鎌倉幕府より「関八州総鎮護」の格を賜ります。その後も格別の尊祟を集め、戦国時代には小田原北條氏、江戸時代には徳川将軍も崇敬して興隆がはかられました。武家が誓いを立てる時の「起請文」には誓詞証明の社として、当社の名が必ず連ねられました。
そうした神徳を讃え、鎌倉三代将軍源実朝が参詣の途に詠じた和歌は『金槐和歌集』に収められています。平安時代の女流歌人として名高い相模や鎌倉時代の阿仏尼も、参詣して百首和歌を奉納しました。その伝統は、仲秋の名月に熱海市が主催する「伊豆山歌会」に受け継がれています。
明治時代の神仏分離令により、名を伊豆山神社と改称されてからも、伊豆大神の神威は絶ゆる事なく、大正三年一月十三日には皇太子であられた昭和天皇、昭和五十五年九月十二日には当時皇太孫であられた今上陛下が御参拝になられました。
平成二十三年九月十九日には、新たに『走湯山秘訣絵巻』が奉納されました。関八州総鎮護伊豆山神社の歴史は、東日本大震災からの復興、ひいては日本と世界の平和の歩みを支え、未来永劫に築かれていきます。 |