おんじょうじ(みいでら)
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方園城寺(三井寺)のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年08月27日(水) 10時56分46秒
参拝:2025年8月吉日
「西国三十三所」第14番札所、「近江西国」第5番札所、「びわ湖108霊場」第6番札所です。
近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られ、一般には三井寺として知られています。
7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍によって再興されました。
園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えましたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々ありました。
近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともありましたが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから園城寺は「不死鳥の寺」と称されています。
天智天皇は自らの念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていましたが、生前にはその志を果たせませんでした。
その子である大友皇子(弘文天皇)もまた672年に壬申の乱のため25歳の若さで没しました。
その後、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のために天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする当寺をようやく建立することができました。
それとは別に、672年頃に大友村主家によって創建されたともされます。
壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ですが、686年にはこの寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与えました。
「園城」という寺号は、大友与多王が自らの「荘園城邑」を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたもの、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」の寺といわれていたものが転じ、三井寺となりました。
かなり混んでいたのにも関わらず、全て直書きをして頂きました😌
丁寧な対応ありがとうございます🙇♀️
近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られ、一般には三井寺として知られています。
7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍によって再興されました。
園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えましたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々ありました。
近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともありましたが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから園城寺は「不死鳥の寺」と称されています。
天智天皇は自らの念持仏である弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていましたが、生前にはその志を果たせませんでした。
その子である大友皇子(弘文天皇)もまた672年に壬申の乱のため25歳の若さで没しました。
その後、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のために天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする当寺をようやく建立することができました。
それとは別に、672年頃に大友村主家によって創建されたともされます。
壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ですが、686年にはこの寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与えました。
「園城」という寺号は、大友与多王が自らの「荘園城邑」を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたもの、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」の寺といわれていたものが転じ、三井寺となりました。
かなり混んでいたのにも関わらず、全て直書きをして頂きました😌
丁寧な対応ありがとうございます🙇♀️
すてき
投稿者のプロフィール

k05121642投稿
🈵美濃西国三十三観音 2023.06.03 🈵尾張七福神 2023.06.03 🈵なごや七福神 2023.12.03 🈵尾張六地蔵 2023.12.24 🈵名古屋二十一大師 2024.02.24...もっと読む
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。
















































