いまきあおさかいなみいけがみじんじゃ
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今城青坂稲実池上神社(いまき・あおさか・いなみ・いけがみ~)(上里町)は、埼玉県児玉郡上里町忍保にある神社。式内論社で、旧社格は県社。祭神は、伊吹戸主命(いぶきどぬし)、豊受姫命(とようけひめ)の2柱。
社伝によると、奈良時代の711年に勧請され、忍保庄の総社として崇敬された。平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵國 賀美郡 今城青坂稲実池上神社 小」の論社の一つとなっており、論社は他に4社ある。鎌倉時代末期の元興年間(1331年~1334年)に新田義貞が金窪に大□(“椰”の木偏が王偏;おおだ)城を築城した際、艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、鬼門除けとして戦勝祈願をした。その後代々城主の崇敬を受けたが、1582年の神流川合戦で社殿を焼失、1591年に川窪与左衛門信俊が社殿を再建、神殿を寄進した。江戸時代になると1694年の大洪水で社殿を流出、再興するも、1698年に川窪信俊の孫・武田越前守信貞が丹後国に転領になると衰退の一途をたどったが、江戸時代末期に地頭から社殿の修繕と神田の寄進を受けて社運が回復した。明治時代になると、村社に列し、その後県社に昇格した。
当社は、JR高崎線・神保原駅の北北東2kmほどの平地、畑が広がる農耕地帯の中にある。さすが旧県社だけあって境内は広々しており、社殿も大きい。社殿までの参道は木々に覆われていて、ちょうどこの時期は銀杏の葉が落ち、きれいな黄色のじゅうたんになっていた。
今回は、武蔵國の式内論社であることから参拝することに。参拝時は週末の午後、自分以外に参拝者は一人も見かけなかった。
境内南側の外、公道脇に立っている<社号標>。珍しい円柱形。
境内南端入口の<一の鳥居>。
一の鳥居をくぐって進むと、美しい銀杏の絨毯が広がる。境内はさすが旧県社だけあって広い。
進行方向左手にある<社務所>。当社の社名は長いが、略称は<池上神社>らしい。
しばらく進むと、<二の鳥居>が現れる。神域は玉垣で囲われ、一段高くなっている。
参道左側の、意外にも簡素な<手水舎>。
いよいよ<二の鳥居>をくぐって神域に入る。鳥居は木製の六脚鳥居で、笠木には瓦が載っている。木製扁額には<延喜式内 今城青坂稲實池上神社>とある。
鳥居をくぐると、<拝殿>全景。瓦葺で彫刻や彩色は一切ないオーソドックスなもの。拝殿手前の天水桶は見慣れない金属製。
<拝殿>正面の扁額には、二の鳥居の扁額と同様、<延喜式内 今城青坂稲實池上神社>とある。
横から<社殿>全景。拝殿後ろの<本殿>は瓦葺の覆屋で、瑞垣で覆われているため中を覗くことはできない。
拝殿に向かって左後ろにある<神楽殿>。
社殿の左手奥にある、大きな境内社は<宮西神社>。Google Mapにも記載あり。
社殿の左手にある境内社。左側は<八坂神社>、右側は不明。
注連縄の掛かっている銀杏の木は<御神木>かな。
最後に<社殿>全景。社殿周り、境内が広くて気持ちが良い。(^▽^)/
武蔵国加美郡の式内社「今城青八坂稲実池上神社」の論社です。神社名冠してるのに論社なのは、明治前まで別の神社名だったりするからです。論社の複数ある神社にはよくある例です。
《一の鳥居》
神明鳥居です。
《社号碑》
随分とまた…長いし細い
《表参道》
《手水舎》
蛇口式です。
《社務所》
無人です。
《二の鳥居》
☆チェックポイント!!
実はここまでの間、獅子狛犬さんが一体もいません。珍しい例です。
《神楽殿》
《拝殿》
《由緒書き》
《末社》
あまり手入れされてないのか、少し荒れてます。
《御神木》
由緒書きでは「勧請」と書かれており、これが「今城青坂稲実池上神社」の本社があるという意味なのか、同郡の「今城青坂稲実神社」から分かれたという意味なのかなかなか興味深いです。
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