こうしんじんじゃ
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埼玉県さいたま市大宮区桜木町に鎮座する神社で、御祭神は猿田彦大神。
寛永5年(1793)の庚申塔によると、『天孫降臨の際に道案内をしたとされる猿田彦大神を祀り「みちひらき・幸運・商売繁盛・豊穣」の神として奉安された』と記されている。
明治の初旬に現在の大宮駅構内の片隅に祠が建てられていたものの、国鉄の拡張工事に伴い駅構内の各所を移転させられていた。
その後、元あった祠の近辺で鉄道事故が多発したことから、国鉄職員と地元有志により明治37年(1904)に現在の鐘塚公園に社を建立した。
やがて社の老朽化が進んだ為、大正10年(1921)に国鉄各機関長を始め、地元有志の尽力により拝殿・本殿・神楽殿を含んだ壮麗な神社が建立され、地元信者により守護されてきたが、昭和50年代に神社を含んだ街区に産業文化センター(今のソニックシティ)が建設されることになり、昭和60年(1985)に現在地に遷座・建立され、現在に至る。

大宮駅徒歩10分ほど⛩️🙏🚶
庚申信仰について
庚申倉仰とは、もともと教祖もなければ経典・教義等もない信仰で道教の一つでありその大元は中国東晋時代の古書「抱朴子」に記されている「三戸(さんし)説」によるという。
「三戸」とは人の体内に住む三匹の虫で、頭には「上戸」影候子(ほうこうし)・腸内に「中戸」常子(ほうじょうし)・下半身に「下戸」命児子(めいこし)がそれぞれ潜んでいるとされる。
抱朴子によれば、「人の体内に潜む三戸には形はないが、実は鬼神や霊魂の類であるという。
人が死ぬと三戸は体外に出て好きなことができるので、常に人が早く死ぬのを望み、庚申の夜、人が眠りにつくと体から抜け出し天に上がり人の罪過を天帝(死命神ともいう)に告げる」という。
天帝は庚申の日には門戸を開いて鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すがその最たるものが寿命の伸縮であるという。
人間誰しも過ちはあることでそれを六十日ごとに報告されて寿命が左右されるのは困ることで、その為康中の夜、三戸の虫が体内から出られないように徹夜で過ごすと説くのが庚申仰の骨子であり特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な行為でこれを「守庚申」といった。
この守庚申が日本へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが不明である。
しかし平安時代に宮中で守康申が行われていたのは確からしくこれを「庚申の御遊」と言っていた。
承和元年には天皇出御のもと待臣に酒を振舞い囲碁などして遊んだとあり、その後の公家の日記等から見て九世紀末から十世紀ころには庚申の御游は恒常化していてらしい。
人々は管路を奏でたり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、酒を飲んだりして夜を過ごし本来の守康申と異なり遊興的なものに変わっていったようである。
この康中の御遊という形で夜を過ごし長寿を願う守申の風習は時代が下がると武士階級に広がり、織田長が申待と称し酒宴乱舞の宴を持ったと、との記録もありこれを「申待」といった。この康申印が庶民にひろがったのは十六世紀ころと言われている。
庶民の庚申待には礼拝対象となる神仏が登場してくる。
始めのころは阿弥陀仏などであったが、江戸時代に入ると仏教系では青面金剛が単油の主尊となり、神道系では猿田彦へと収斂していったという。
いずれにしても康申待は神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので三戸説など影も形もないほど変貌している。
ようするに庶民の庚申待とは神祀り・先祖祀りが申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。
庚申講の日人々は身を浄め庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱え、その合間に酒を飲んだり話をしたりして過ごし、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝に入ったという。
古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳染していた悪霊・邪鬼が退散するといわれ、これが庚申尊掛け軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁である。
庚申待が行われていた事を証明するものに「庚申塔」と呼ばれる石碑がある、庚申などを刻んだ文字碑・猿田彦を彫り込んだ石碑
で東日本に多いという。
庚申塔とは、康申縁起に「一座と申すは三年に十八度なり。両三年には供養いたすべし。
供養とは道野辺に塚をつき四方正面の蘇東波を立てて供物をととのえ、・・・・・」とあるように、三年十八度の申待を続けた記念に立てたもの、康申年を記念したもの、特に申のご縁年として祝われた七康申年を記念したもの、申構内にめでたいことが起きた記念に立てたものなど種々あるという。
庚申仰で礼拝対象となっているのは、仏教系では「青面金剛」神道系では「猿田彦」というのが大方である。
猿田彦とは記紀神話で天孫理理杵尊(ににぎのみこと)の降臨に際し道案内として現れた国津神である。
その猿田彦を中尊とするわけは猿田彦の「猿」
が庚申の「申」に通じることもあり、また猿田彦が理理杵の露払いをしたことから、禍を払う力があると考えられたためとも、太田神とも呼ばれる猿田彦が田の神・豊穣の神とされ、豊作豊穣の願いを叶えてくれる神と考えられていたともいわれる。
ウエブサイトより抜粋

庚申神社由来記
本宮 猿田彦神社 三重県伊勢市
祭神 猿田彦大神
富社は、天孫降臨の際道案内をしたと、記紀に記されている田彦の尊を祀り、みちひらきの神、幸運の神、商売繁盛の神、豊穣の神として祀られ、その起源は寛永五年(一七九三年)の庚申塔として記録されております。
明治の初めころ、祠が建てられ現在の大宮駅構内の一隅に設置されました。
その後、桐は国鉄の拡張工事のたびに構内各所に移転させられていましたが、元、祠のあった付近で鉄道事故が多発したことから、明治三十年(一九〇四年)国鉄職員と地元有志によって、現在地の北、約二〇〇メートルの位置(現在の金塚公園一帯)に社を建立、安置されました。
この頃より社は近隣の人々の深い敬神を集めるようになりました。
大正一〇年(一九二一年)社の老化が進んだため、国鉄各業務機関の長をはじめ、その職員と地元有志の尽力によって、本殿・拝殿・神楽殿からなる荘厳な神社を建立、緑豊かな神木にかこまれ地元者により守護されてきました。
しかし、昭和五〇年代営社を含む街区に産業文化センターが建設されることになり、富社は埼玉県と大宮市の保証および地元有志の浄財をもって、昭和六〇年七月(一九八五年)現在地に遷座建立されたものです。
これを機に、富社は桜木町の氏神さとして永久安置の願いを込めて、宗教法人庚申神社となり今日に至っております。
平成二八年一月吉日


他アプリでは鐘塚稲荷と表記されてしまってる神社です。庚申神社と鐘塚稲荷神社は別々の神社です。さらにややこしいことに大宮駅には東口と西口どちらにも庚申神社がある。今回は西口の庚申神社です。
→他アプリ7月中に鐘塚稲荷神社と庚申神社の投稿分離修正されてました。

17時過ぎでしたが先客二人、おひとりは御朱印もお受けしてました。

御朱印、お札、絵馬はセルフ方式
御朱印の初穂料はお賽銭箱にと但し書きあるのですが御朱印の箱の中に硬貨が数枚ありました・・・
隣の安楽寺さんも御朱印の評判良いんですが17時過ぎてたので今回は見送りました。





庚申神社参拝⛩
大宮駅から5分ぐらいの距離、目の前には大きなホテルがたち、大きなビル街の中に鎮座されてます。
境内は綺麗に掃き清められていてよく管理されているようです。
御朱印は書置きが用意されていて、初穂料は賽銭箱に入れるようになっています😁

みちひらきの神社
良い方に道ひらき下さい🙏

身体の不調で医者に行って、入院や手術になったらどうしようと思っていたら、大したことないようなのでホッとして帰ろうとしたら医者の斜め前に、みちひらきの庚申神社が✨健康に感謝して参拝してきました😭
来週からまた遠出もしたいなぁ😊


2023.10.26
④大宮「庚申神社」
私は味のある小規模の寺社も好物です。
何でこんな場所に?名前の由来は?等気になります。
この「庚申神社」もそんな神社⛩️です。
・御祭神
猿田彦大神
・創建
寛永五年(1793)以前
・御由緒
明治の頃より猿田彦命を祀る祠が大宮駅構内の一隅にあり、
国鉄の拡張工事の度に各所に移転するのだが、決まって元祠の
場所で鉄道事故が多発したことから、明治37年国鉄と地元有志
により現在地の北約200mの位置に社を建て安置した。
大正10年には荘厳な神社を建立するも、産業文化センター建設
のため昭和60年に現在地に移転建立した。
・パワースポット
境内の御座石に悩み事を念じながら手をかざすと、悩み事を
吸い取って地中深く閉じ込めてくれます。
私も悩み事を吸い取って頂きました。
・御朱印
セルフで賽銭箱に三百円を入れる方式。日付けも自分で
書きます。
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