みつみねじんじゃ
三峯神社の御由緒・歴史
ご祭神 | 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉册尊 (いざなみのみこと) | |
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創建時代 | 111年(景行天皇41年) | |
ご由緒 | 当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。 降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。 こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。 三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。 後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に窺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。 更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。 現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。 やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。 以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。 | |
歴史 | 歴史[編集] 三峰神社付近略図。1938年 社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという[1]。景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える[2]。伊豆大島に流罪になった役小角が、三峰山で修業をし[1]、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。 三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。 淳和天...Wikipediaで続きを読む | |
引用元情報 | 「三峯神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E4%B8%89%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=101958309 |
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