たみのじんじゃ
田蓑神社のお参りの記録一覧
神崎川と志門殿川に挟まれた三角州の北の端に鎮座する神社です。三韓征伐を終えられて帰還された神功皇后さまがこの地に立ち寄られ、現地の海士から白魚を献上され、その功績を讃えて建てられたと伝わる古い由緒を持ちます。後世にその海士が顕現され、神功皇后さまとの神蹟を伝えていくよう申されたといわれています。
《注連柱と社号碑》
《表参道》
《手水舎》
水は流れています。
《絵馬かけ》
《拝殿》
時期ではありませんが茅の輪が置いてあります。
《扁額》
当社の創祀は白魚を献上した海士を讃えて祀っていたということですが、この海士が顕現したときに住吉大明神を祀るように申したことで御祭神が変更となりました。三角洲にあることから海運と漁業が現地の方々の本業になったでしょうからかなり高い崇敬を集めていたことでしょう。
《本殿》
本家の住吉大社と同じく四棟の本殿があり、住吉造に比較的近い建築様式をとっています。
《東照宮》
家康公が自らの一族(源氏)に由縁のある川西市の多田神社に参詣する際に、佃の現地民に川の船頭を依頼し、その恩賞に全国での漁業権と免税を認めたそうです。かなりの優遇措置ですね。
今回は豊崎宮とコラボした東照宮の御朱印をいただきました🙏
《稲荷神社》
いつもお世話になって(🤛
《お堂》
なんか変わった模様が書かれていますね…
大阪府と兵庫県の県境、神崎川と左門殿川に挟まれたところに鎮座。
周辺は住宅が多いのですが、境内周辺や参道は木々で覆われとても静かでした。
境内には相撲の玉ノ井部屋の大阪宿舎がありました。
住吉四神を祀る西淀川区佃の鎮守、氏神様になります。
さらに徳川家康公との縁があり、境内には家康公を祀る東照宮もあります。
大阪市北区に鎮座する豊崎神社にも東照宮があり、この二社をめぐる「浪速東照宮朱印めぐり」では、二社の東照宮印を並べると見開きの御朱印となり、家康公の兜の前立てであるシダの葉が描かれています。
天正年間、徳川家康公が多田の廟に参詣の際、この地の村人が漁船にて神崎川の渡船を勤めたことにより、「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別の褒美を得たそうです。
そして家康公が関東へ下降の際に、田蓑神社の神職を含む村人たちが江戸に下りました。
そこで田蓑神社の御分神霊を奉戴したそうです。
それが東京都中央区佃にある住吉神社とのこと。
<御祭神>
底筒之男命
中筒之男命
表筒之男命
神功皇后
<御由緒>~田蓑神社パンフレットより~
「日本書記」や「古事記」でよく知られるお話しで、伊邪那岐命が、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きました。
そこで受けた汚れを清めるために、「筑紫の日向の橘の小門の憶原」というところで禊祓いしたとき、住吉の神である底筒男命、中筒男命、表筒男命の「住吉三神」が生まれました。
時代は下って、十四代仲哀天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際に、住吉の大神を守り神と奉り、遂に成し遂げ国の安定を築かれました。その帰途、この地に立ち寄られた折、海士が白魚を献上されてより、その海士を奉ったとされております。
後の世、当地開拓の時その海士が出現し、神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよと申され、貞観十一年(869年)に創建され、住吉三神と神功皇后の「住吉四神」をお奉りいたしました。
社名は時代と共に、田蓑嶋神社(田蓑嶋姫神社との説も)、住吉神社(住吉大神宮、住吉明神、住吉大明神とも)と変遷し、明治元年(1868年)に田蓑神社と改められました。
拝殿
本殿
四神それぞれの社殿があります
手水舎
境内社鳥居
東照宮
七重之社
稲生神社
ふと後ろを振り返ると黒猫さんに見られていました
駐車場は境内の西側にあります。
奥から2番目と3番目が参拝者用です。
通常御朱印
難波東照宮朱印めぐり御朱印
浪速東照宮朱印めぐりの御朱印
田蓑神社の東照宮朱印はいただけたのですが、豊崎神社は社務所がご不在だったためいただけず。
豊崎神社拝殿に飾られていたものを撮影させていただきました。
住宅街の中にある神社です。
絵馬のぶつかる音や鳥の声がとても爽やかでした。
巨大な蚊に襲われたのは少し怖かったです…。
書置きでいただきました。社務所の方がいるときは直書きでもいただけそうです。
初穂料お気持ち
境内社の東照宮の御朱印
初穂料500円
大阪府のおすすめ3選🎍
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
10
0