御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
新 ホトカミサポーター制度開始(特典あり)

最新のお知らせ

八咫烏神社より投稿いたします。

八咫烏神社の建物その他

八咫烏神社全景

八咫烏神社の本殿

拝殿。その奥には本殿が鎮座。

八咫烏神社の景色

境内から東の方角に伊那佐山が。神武東征伝説の舞台のひとつ

お知らせをもっと見る(1件)
御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
あり

あり

ご利益

八咫烏神社について

初代天皇である神武天皇を助け導いた「八咫烏」を祭る神社。

神主より

神社にお参りの際には、ご祭神はもちろんのこと、太古の昔から続く自然やこの神社を守り伝えてきた先人たちの想いにも心を寄せていただければ幸いです。

おすすめの投稿

神祇伯
2021年04月11日(日)
1266投稿

大和国宇陀郡の式内社です。神話で神武天皇さまを大和国まで導いた八咫烏(建角身命)さまを祀ります。
八咫烏が動物なせいで神使のイメージが強いですが、れっきとした神様なんですよね。

八咫烏神社の鳥居

《一の鳥居》

八咫烏神社の鳥居

《二の鳥居》
この前に駐車場があります。

八咫烏神社の建物その他

《表参道》

八咫烏神社の手水

《手水舎》
水は流れています。柄杓なしで洗えるように設置されていますね。

八咫烏神社の本殿

《外拝殿》
土間式になっています。

八咫烏神社の狛犬

《獅子像》

八咫烏神社の歴史

《由緒書き》
👁チェックポイント‼️
この八咫烏神社は吉野に近いので朝廷が南北朝に分かれたとき、南朝の後醍醐天皇さまから篤い崇敬を受けていました。
しかし南北朝が統合されたあとに衰退してしまい廃絶しかけていたところ、下鴨神社の神官によって再興されました。
歴史的にも同じ神様を祀る神社の連携プレーが垣間見ある瞬間でした。

八咫烏神社の建物その他

《賽銭箱》
箱の中には書き置きの御朱印が準備されていました。

八咫烏神社の建物その他

《参道》

八咫烏神社の本殿

《本殿》
本来は石造でしたが、下鴨神社による再興時に春日造となりました。

八咫烏神社の狛犬

《八咫烏像》
現在もサッカー日本代表のエンブレムに八咫烏がかかれています。日本を代表する神鳥として現在も扱われている証拠ですね。

もっと読む
投稿をもっと見る(12件)

歴史

・社史・社伝、言い伝えなどによる創建に関する経緯、歴史的な背景など 
当社は延喜式神名帳記載の式内社で、我が国の草創期の正史のひとつである『續日本紀』に文武天皇の御代 「『慶雲二年(西暦705)九月丙戌』、『大倭國宇太郡』に『八咫烏社』を祭る」と記述が見え、これが当社の創祀とされています。御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。建角身命とは伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられています(余談ですが、当社境内から東の方角にある山を伊那佐山といい、この山も神武東征伝説の舞台となっています)。このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられています。(※1)
しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となり、社の衰微にともなって、いつしか「をとごろす」という俗称が残ったほどだと伝えられています。(※2)
やがて、江戸時代文政年間に京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興されました。本殿が現在のような春日造に作り替えられたのもこの頃とされています。
その後、大正三年の神社合祀令により近隣の鎮守の神様が当地で祀られることになったため、にわかに再興しました。また、昭和の時代になって紀元2600年を記念し、県社に昇格するのにともない神域の拡張と整備が行われました。以降、現在へと至ります。
※1「八咫烏神社略縁起」文政十三年庚寅年、藏人民部大丞兼左兵衞大尉大江朝臣俊常
※2「和州舊跡幽考」延寶九年、林宗甫                          

歴史をもっと見る|
6

八咫烏神社の基本情報

住所奈良県宇陀市榛原高塚42
行き方

電 車=近鉄大阪線 榛原駅下車、奈良交通バス「菟田野」行き「高塚」バス停下車、徒歩約3分          
自動車=名阪国道 針ランプより国道369号、165号、県道31号経由、約15km。 

アクセスを詳しく見る
名称八咫烏神社
読み方やたがらすじんじゃ
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
メールアドレスinfo@yatagarasujinja.net
ホームページhttp://www.yatagarasujinja.net/
SNS

詳細情報

ご祭神建角身命(八咫烏大神)
創建時代705年(慶雲二年)
本殿春日造
ご由緒

・社史・社伝、言い伝えなどによる創建に関する経緯、歴史的な背景など 
当社は延喜式神名帳記載の式内社で、我が国の草創期の正史のひとつである『續日本紀』に文武天皇の御代 「『慶雲二年(西暦705)九月丙戌』、『大倭國宇太郡』に『八咫烏社』を祭る」と記述が見え、これが当社の創祀とされています。御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。建角身命とは伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられています(余談ですが、当社境内から東の方角にある山を伊那佐山といい、この山も神武東征伝説の舞台となっています)。このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられています。(※1)
しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となり、社の衰微にともなって、いつしか「をとごろす」という俗称が残ったほどだと伝えられています。(※2)
やがて、江戸時代文政年間に京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興されました。本殿が現在のような春日造に作り替えられたのもこの頃とされています。
その後、大正三年の神社合祀令により近隣の鎮守の神様が当地で祀られることになったため、にわかに再興しました。また、昭和の時代になって紀元2600年を記念し、県社に昇格するのにともない神域の拡張と整備が行われました。以降、現在へと至ります。
※1「八咫烏神社略縁起」文政十三年庚寅年、藏人民部大丞兼左兵衞大尉大江朝臣俊常
※2「和州舊跡幽考」延寶九年、林宗甫                          

体験祈祷お祓いお宮参り七五三御朱印お守り祭り伝説

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう

利用開始をもって利用規約プライバシーポリシー
同意したものとみなします。

※購読はいつでも解除できます。

This site is protected by reCAPTCHA and the Google
Privacy Policy andTerms of Service apply.

御朱印背景
行きたい
投稿する
お問い合わせ
サポーターページ小バナー