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びょうどうじ|曹洞宗

平等寺(三輪山平等寺)の御由緒・歴史
奈良県 三輪駅

ご本尊十一面観音
ご由緒

伝承によれば、聖徳太子の開基、慶円の中興とされている[1][2]。『大三輪町史』は、平等寺以前の大三輪寺遍照院の存在から空海開基説の存在も述べている。
平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは鎌倉時代以降であり、初見は「弥勒如来感応抄草」の1236年(嘉禎2年)である。同書によれば慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。この当時、平等寺が存在して「三輪別所」と呼称されており、その後比較的早い時期に「平等寺」という寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。
鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神の別当寺の地位にたっていた。一方で、「大乗院寺社雑事記」には、興福寺が平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。また、同時に修験道を伝えていたことから、醍醐寺との関係も保持していた。そのため、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存する関係にあった。室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。
江戸時代には、興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた。朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、江戸時代の絵図により知られる。それによると、三輪明神の南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、複数の堂舎が存在したことがうかがわれる。
1868年(明治元年)、神仏分離の太政官布告が出される。これにより、1870年(明治3年)には、平等寺は三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、平等寺は廃止となる。1959年(昭和34年)の『大三輪町史』編纂の段階では、「現在は、その伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在するとともに、主たる仏像は翠松寺に移されているような現況である」とあるように、堂舎は存在せず、一切の建物も残っていない状態となっていた。
1977年(昭和52)、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。永平寺副監院丸子孝法によって現在は伽藍も復元されている。

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