いそのかみじんぐう
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石上神宮ではいただけません
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石上神宮のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年04月22日(木)
参拝:2021年4月吉日
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
『古事記』や『日本書紀』にも記載がある古社で、特に神宮号に関しては伊勢神宮と同じく最古から記載がある。社伝によると、崇神天皇7年(紀元前91年)に物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))に宿る神霊・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を「石上大神」として祀ったのが当社の創建。
大和時代、奈良時代を通じて朝廷などから信仰を集め、日本後記によると平安初期に当社天神庫の神宝類を移転するのに16万人近くの人員を要したと記されている。平安時代の868年に、主祭神の布都御魂大神は最高位の神階である正一位となっている。また、927年の延喜式神名帳では、「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載されている。なお、境内摂社の<出雲建雄神社>についても、「大和国山辺郡 出雲建雄神社」の論社となっている。
中世以降は、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化に晒され度々抗争したが、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され神領も没収され衰微した。
明治期に入り官幣大社に列し、1883年には神宮号の復称が許された。なお、当社にはもともと本殿がなく、神宝が埋斎されている拝殿奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」と称して祀っていたが、大正時代の1913年に本殿が造営された。
当社は、JR桜井線(万葉まほろば線)、近鉄天理線の・天理駅の東方2kmの高台に位置している。駅から当社まで、公共交通機関だと1日4本の天理市コミュニティバスしかないようなので、観光者にとっては道のり3kmを歩くかタクシーしかない(タクシーだとおよそ1,300円)。もともと境内は広かったようだが、低い場所の多くは石上神宮外苑公園となっていて、参拝して廻るエリアは広くはない。
参拝時は週末の昼ごろで、土砂降りの雨にもかかわらず、一般参拝者や祈祷を受ける家族連れなどがけっこういた。
『古事記』や『日本書紀』にも記載がある古社で、特に神宮号に関しては伊勢神宮と同じく最古から記載がある。社伝によると、崇神天皇7年(紀元前91年)に物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))に宿る神霊・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を「石上大神」として祀ったのが当社の創建。
大和時代、奈良時代を通じて朝廷などから信仰を集め、日本後記によると平安初期に当社天神庫の神宝類を移転するのに16万人近くの人員を要したと記されている。平安時代の868年に、主祭神の布都御魂大神は最高位の神階である正一位となっている。また、927年の延喜式神名帳では、「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載されている。なお、境内摂社の<出雲建雄神社>についても、「大和国山辺郡 出雲建雄神社」の論社となっている。
中世以降は、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化に晒され度々抗争したが、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され神領も没収され衰微した。
明治期に入り官幣大社に列し、1883年には神宮号の復称が許された。なお、当社にはもともと本殿がなく、神宝が埋斎されている拝殿奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」と称して祀っていたが、大正時代の1913年に本殿が造営された。
当社は、JR桜井線(万葉まほろば線)、近鉄天理線の・天理駅の東方2kmの高台に位置している。駅から当社まで、公共交通機関だと1日4本の天理市コミュニティバスしかないようなので、観光者にとっては道のり3kmを歩くかタクシーしかない(タクシーだとおよそ1,300円)。もともと境内は広かったようだが、低い場所の多くは石上神宮外苑公園となっていて、参拝して廻るエリアは広くはない。
参拝時は週末の昼ごろで、土砂降りの雨にもかかわらず、一般参拝者や祈祷を受ける家族連れなどがけっこういた。
鳥居と社号標。社殿までの参道は東向きだが、鳥居までの参道は北からと西からとがあり、社号標は北参道に向いているため、ちょっと変なアングル。
鳥居と「布都御魂大神」の扁額。
参道進んで左側の<社務所>。
参道挟んで社務所の対面にある<神池>。
社殿と参道。参道左側が社殿で、右側が小高い場所とその上にある摂末社。石上神宮の公式HPトップページ写真や由緒書パンフレットの表紙写真もこのカット。
社殿前参道の右側にある<手水舎>。屋根がなく素朴なもの。
手水舎の右手にある<撫で牛>。
社殿全景の写真が撮りにくく、撮ったとするとこんな感じ。
左側は、神域入口の<楼門>。鎌倉時代後期の造営。国指定の重要文化財。
楼門をくぐる。
楼門をくぐると国宝<拝殿>のはずが、絶賛工事中...涙 拝殿は鎌倉時代前期の造営。
拝殿内では、たまたま祈祷中だった。
工事していなければ、こんな外観(写真はWikipediaより引用)。
拝殿から振り返ると、<楼門>の裏側。
右前方を向くと<授与所>。御朱印はこちら。
左前方を向くとちょっとした展示場所。
展示場所にあった国宝<七支刀>(実寸大?)を印刷したもの。<七支刃>は古墳時代の作で、石上神宮伝世品。
南側の摂末社のある小高い場所の階段を登ると、楼門の2階部分がよく見える。
階段を登り切ると、右手にある国宝<摂社出雲建雄神社拝殿>。鎌倉時代後期の1300年造営。
左手にある<出雲建雄神社>(左)と<猿田彦神社>(右)の鳥居。
摂社<出雲建雄神社>の社殿。出雲建雄神(草薙剣の荒魂)を祀る。式内論社。
摂社<猿田彦神社>の社殿。猿田彦大神、住吉大神、高靇神の3柱を祀る。
さきほどの2摂社の左手に別の鳥居と階段がある。
左側にある摂社<天神社>。高皇産霊神、神皇産霊神の2柱を祀る。
右側にある摂社<七座社>。生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神の7柱を祀る。
<天神社>のあたりから見た石上神宮全景。工事のテントが...
社殿前参道を進んだ奥にある寺院のような建物。用途は分からず。
すてき
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惣一郎1269投稿
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