かすがたいしゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
春日大社ではいただけません
広告
春日大社のお参りの記録(2回目)
投稿日:2021年04月17日(土)
参拝:2021年3月吉日
本社・摂社・末社を周ってみました。
若宮十五社めぐりや水谷九社めぐり、一部断片を投稿しました。
若宮十五社めぐりや水谷九社めぐり、一部断片を投稿しました。
若宮十五社めぐり 若宮
天児屋根命の御子・天押雲根命アマノオシクモネノミコトを祀る。
社伝では、若宮は長保五年(1003)年に母神の本社第四殿に出現されたとされ、長承四(1135)年に若宮社の社殿が創建された。
春日若宮おん祭は、長承三年の飢饉により関白藤原忠通が五穀豊穣を祈り、
保延二(1136)年九月十七日に創始されたものとされる。
室町時代の応承頃から、旧暦十一月十七日に行われるようになり、
江戸時代には興福寺に代わり幕府が祭礼費用を負担し、
徳川将軍の名代として影向の松」の下で、おん祭の検分を行うことは奈良奉行の重要な職務であった。
明治三十三年以降、新暦十二月十七日に固定された。「
天児屋根命の御子・天押雲根命アマノオシクモネノミコトを祀る。
社伝では、若宮は長保五年(1003)年に母神の本社第四殿に出現されたとされ、長承四(1135)年に若宮社の社殿が創建された。
春日若宮おん祭は、長承三年の飢饉により関白藤原忠通が五穀豊穣を祈り、
保延二(1136)年九月十七日に創始されたものとされる。
室町時代の応承頃から、旧暦十一月十七日に行われるようになり、
江戸時代には興福寺に代わり幕府が祭礼費用を負担し、
徳川将軍の名代として影向の松」の下で、おん祭の検分を行うことは奈良奉行の重要な職務であった。
明治三十三年以降、新暦十二月十七日に固定された。「
若宮十五社めぐり
夫婦大国
若宮の御供所で手水舎とも呼ばれている。
建物は寛永十(1633)年頃のもの。
大国主命と須勢理媛命を土間南西の棚の上に祀る。
南壁際に流しと竈があることから「はしりもと大黒」の名もある。
夫婦円満・良縁を祈願しハート型の杓子が奉納されています。
若宮の御供所で手水舎とも呼ばれている。
建物は寛永十(1633)年頃のもの。
大国主命と須勢理媛命を土間南西の棚の上に祀る。
南壁際に流しと竈があることから「はしりもと大黒」の名もある。
夫婦円満・良縁を祈願しハート型の杓子が奉納されています。
影向石・出現石・額石
南門前に頭を出す石。
若宮が赤童子の姿で現れた石とされます。
雷で砕けた南門の「正一位春日大明神」という額を、
ここに納めたともいい額石の名もある。
南門前に頭を出す石。
若宮が赤童子の姿で現れた石とされます。
雷で砕けた南門の「正一位春日大明神」という額を、
ここに納めたともいい額石の名もある。
南門
榎本神社
現在工事中です。
本社回廊に祀られる榎本社は春日の地主神で、耳が遠く春日大明神の土地三尺を貸して欲しいという申入れを、三尺四方と聞き許したが、地下三尺の聞き間違いで、その為に春日杉は地下三尺以上に根を張らないという。
造り替え時には、敬意を払いこの社から造り替えたといわれます。
本社参拝前に必ず参るべしとされ、その際に神様は耳が遠いため、社を叩き参拝したことを告げるとされていました。
現在工事中です。
本社回廊に祀られる榎本社は春日の地主神で、耳が遠く春日大明神の土地三尺を貸して欲しいという申入れを、三尺四方と聞き許したが、地下三尺の聞き間違いで、その為に春日杉は地下三尺以上に根を張らないという。
造り替え時には、敬意を払いこの社から造り替えたといわれます。
本社参拝前に必ず参るべしとされ、その際に神様は耳が遠いため、社を叩き参拝したことを告げるとされていました。
梅の咲く頃
桂昌院奉納の燈籠
吊燈籠と中門
御蓋山浮雲峰遥拝所
あの~~ 雑木林しか見えませんでしたが。
あの~~ 雑木林しか見えませんでしたが。
武将奉納の吊燈籠
石燈籠や吊燈籠に多くの武将の名が見られるようです。
石燈籠や吊燈籠に多くの武将の名が見られるようです。
林檎の樹と本社大樹
この広場は古来より「林檎の庭」とよばれ、この林檎の結実が多いか少ないかで、その年の農作物の豊凶を占ったとされる。
元々の樹は平安末期、高倉天皇(1168~1179)の献木と伝わるが、その後枯れ今ある樹は昭和三十二年に献木されたもの。
この広場は古来より「林檎の庭」とよばれ、この林檎の結実が多いか少ないかで、その年の農作物の豊凶を占ったとされる。
元々の樹は平安末期、高倉天皇(1168~1179)の献木と伝わるが、その後枯れ今ある樹は昭和三十二年に献木されたもの。
捻廊
内侍殿と西御廊をつなぐ斜行する登廊。
すべての面が平行四辺形。
名工左甚五郎の作と言い伝えられた。
現在のものは、宝永四(1707)年から六年の造り替え時の建築とされます。
内侍殿と西御廊をつなぐ斜行する登廊。
すべての面が平行四辺形。
名工左甚五郎の作と言い伝えられた。
現在のものは、宝永四(1707)年から六年の造り替え時の建築とされます。
藤浪之屋の春日大明神吊燈籠
石燈籠の多くは春日社となっていますが、境内に十五ほど春日大明神と刻まれている燈籠ががあり、三つを確認できれば金運が上がると言われていますが。
所在の情報も色々と有るようなのですが、確認できませんでした。
石燈籠の多くは春日社となっていますが、境内に十五ほど春日大明神と刻まれている燈籠ががあり、三つを確認できれば金運が上がると言われていますが。
所在の情報も色々と有るようなのですが、確認できませんでした。
慶賀門
西面回廊には三つの門があります。
剣先道、藤鳥居から通じる南門の慶賀門は勅使の参入門。
中門が清浄門で僧正門とも呼ばれ、勅使の従者・西屋や本談義屋など、興福寺の参籠屋からの社僧の参入門。
北門が内侍門で女官が参入門とされ鹿道から直進する内侍道(北路)はこの門に繋がっていたといわれます。
西面回廊には三つの門があります。
剣先道、藤鳥居から通じる南門の慶賀門は勅使の参入門。
中門が清浄門で僧正門とも呼ばれ、勅使の従者・西屋や本談義屋など、興福寺の参籠屋からの社僧の参入門。
北門が内侍門で女官が参入門とされ鹿道から直進する内侍道(北路)はこの門に繋がっていたといわれます。
桂昌殿
元禄十一(1698)年、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院によって建てられた天下泰平の祈願を修する祈祷殿.
将軍綱吉や桂昌院によって京や奈良の寺社の再建修理がなされた。
明治以降には旧幕府の政治が全て悪政だと否定され、綱吉の治政をことさら貶めるため誇張された話しが多くあります。
元禄期の修理が無ければ、世界遺産となっている木造建築物群も、現在まで伝わることがなかったのも事実かもしれません。
我々を感動させてくれている文化財は、人々が何もせずに放置すると、現在まで残っているものでないと思います。
元禄十一(1698)年、五代将軍徳川綱吉の母・桂昌院によって建てられた天下泰平の祈願を修する祈祷殿.
将軍綱吉や桂昌院によって京や奈良の寺社の再建修理がなされた。
明治以降には旧幕府の政治が全て悪政だと否定され、綱吉の治政をことさら貶めるため誇張された話しが多くあります。
元禄期の修理が無ければ、世界遺産となっている木造建築物群も、現在まで伝わることがなかったのも事実かもしれません。
我々を感動させてくれている文化財は、人々が何もせずに放置すると、現在まで残っているものでないと思います。
水谷九社めぐり 水谷神社の陰石
水屋社ミズヤノヤシロとも書かれ、江戸時代には牛頭天王社ともよばれる。
疫病除けの祇園さんであり、本地は薬師如来とされる。
夫婦和合・安産の信仰があり、境内には陰石と水谷寄木があります。
東側に残る芝舞台で春日社祢宜の神事能が奉納され、水谷能と呼ばれていたが、元和九(1623)年の祭礼の際に見物の郡山藩士と祭礼警固の奉行所の侍の間で、水谷騒動と呼ばれる乱闘騒ぎが起こり、祭礼が一時途絶えましたが、現在の状況については確認しておりません。
水屋社ミズヤノヤシロとも書かれ、江戸時代には牛頭天王社ともよばれる。
疫病除けの祇園さんであり、本地は薬師如来とされる。
夫婦和合・安産の信仰があり、境内には陰石と水谷寄木があります。
東側に残る芝舞台で春日社祢宜の神事能が奉納され、水谷能と呼ばれていたが、元和九(1623)年の祭礼の際に見物の郡山藩士と祭礼警固の奉行所の侍の間で、水谷騒動と呼ばれる乱闘騒ぎが起こり、祭礼が一時途絶えましたが、現在の状況については確認しておりません。
すてき
投稿者のプロフィール
湯守りと妖怪41投稿
神仏霊場会の神社やお寺を電車やバスを利用しながら、ぼちぼち参拝しています。
妖怪さんは、神社やお寺から遠慮するように言われるかもしれませんが、齢を重ね妖怪と呼ばれるまで、いつまで何巡できますやら。
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。
奈良県のおすすめ🍁
広告